合戦絵巻 ─ 南北朝 勢力図

筑後川の戦い(大保原の戦い)

1359年8月6日〜7日 / 筑後 大保原

8月6日

筑後川をはさんで

1粒=約100人

1359年(正平14年・延文4年)8月、筑後国の筑後川のほとり(いまの福岡県久留米市・小郡市あたり)で、懐良親王と菊池武光の率いる南朝方の軍が、少弐頼尚らの北朝方の大軍を破った。両軍合わせて10万ともいわれる、九州の南北朝時代で最大の戦いである。この勝利で、九州はおよそ10年にわたって南朝の支配下に入った。

上の観戦プレイヤーでは、征西府(懐良親王・菊池武光)約4万約300と幕府方(少弐頼尚)約6万—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの5つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

征西府(懐良親王・菊池武光)約4万
約300
幕府方(少弐頼尚)約6万
—
いつ
8月6日 → 結果

なぜ戦ったのか

南北朝時代、後醍醐天皇は皇子たちを各地へ送り、南朝の勢力を広げようとした。九州へ送られたのが、まだ幼い懐良親王である。親王は「征西将軍」として、長い旅のすえに肥後の菊池氏のもとに迎えられた。

九州では、北朝方の大宰府の少弐氏、豊後の大友氏、南九州の島津氏などが力を持っていた。ところが観応の擾乱で足利氏が分裂すると、足利直冬が九州に入り、北朝方の武士たちも割れて争うようになった。菊池武光はその混乱をついて勢力を伸ばした。

少弐頼尚は一時、懐良親王と手を結んでいたが、やがて北朝方に戻り、大友氏などと連合して南朝方に対抗した。1359年、両軍は筑後川をはさんで向かい合った。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

18月6日

筑後川をはさんで

懐良親王と菊池武光の南朝軍と、少弐頼尚の幕府方の大軍が、筑後川をはさんで向かい合った。両軍合わせて10万ともいわれる、九州の南北朝で最大の戦い。

28月6日 夜

夜襲

武光は300人の決死隊を夜に送り出し、少弐軍の陣に火をかけて混乱させた。

38月7日

川を渡る激戦

夜明けとともに南朝軍が川を渡って総攻撃をかけた。懐良親王自身も3か所に傷を負い、菊池一族にも多くの戦死者が出た。

48月7日

少弐軍の敗走

激戦の末、少弐軍は大宰府の方へ退いた。武光が戦いの後、血に染まった太刀を近くの小川で洗ったと伝えられ、「太刀洗」という地名が残る。

5結果

筑後川の戦いの結果

両軍の死者は数千人にのぼったとされる。2年後、懐良親王は大宰府に入って征西府を置き、約10年にわたって九州を治めた。

勝敗を分けたもの

夜襲で乱す

決戦の前夜、菊池武光は決死の兵を送って少弐軍の陣を夜襲させた。不意をつかれた少弐軍は混乱し、翌朝の戦いに響いた。

大将自ら前線へ

懐良親王も自ら戦場に立ち、3か所に傷を負ったと伝えられる。菊池一族も多くの戦死者を出しながら、川を渡って攻めかかった。

菊池一族の結束

南朝方の中心は、肥後の菊池氏とその一族だった。武光のもとで固くまとまった菊池勢が、寄せ集めの北朝方を押しきった。

主な武将とその後

懐良親王征西府(懐良親王・菊池武光)約4万

後醍醐天皇の皇子。征西将軍として九州に入り、1361年に大宰府を手に入れた。明からは「日本国王良懐」として使者を迎えている。1370年代に今川了俊に押されて大宰府を失い、のちに筑後で亡くなった。

菊池武光征西府(懐良親王・菊池武光)約4万

肥後の菊池氏の当主。懐良親王を支えて九州の南朝方を率い、筑後川で大勝した。戦いのあと、血に染まった太刀を小川で洗ったという話が「太刀洗」の地名として残る。

少弐頼尚幕府方(少弐頼尚)約6万

大宰府を本拠とする北九州の有力な武士。南朝と北朝のあいだで立場を変えながら生き延びようとしたが、筑後川で大敗し、のちに大宰府を追われた。

合戦のあと

1361年、懐良親王と菊池武光は大宰府に入り、ここに征西将軍府を置いた。南朝が全国で劣勢になっていくなか、九州だけはおよそ10年にわたって南朝の天下となった。

室町幕府は1371年、今川了俊(貞世)を九州探題として送りこんだ。了俊は巧みに九州の武士をまとめ、1372年に大宰府を取り戻した。武光は1373年に亡くなり、九州の南朝方はしだいに力を失っていった。

諸説と論点

「10万の大軍」

南朝方4万、北朝方6万という兵力は、軍記物の『太平記』によるもので、実際の数はもっと少なかったと考えられている。それでも九州の南北朝時代で最大の戦いだったことは確かとされる。

戦いの名前

この戦いは「筑後川の戦い」のほか、戦場の地名から「大保原の戦い」「大原合戦」とも呼ばれる。

「太刀洗」の地名

福岡県の大刀洗町の名は、武光が太刀を洗ったという言い伝えに由来するとされる。伝説の真偽はわからないが、戦いの記憶が地名として残った例である。

関連年表

1336年南北朝の分裂
1342年ごろ懐良親王が九州に上陸
1348年懐良親王が肥後の菊池氏のもとに入る
1350年〜1352年観応の擾乱。九州でも北朝方が割れる
1359年8月筑後川の戦い(大保原の戦い)
1361年懐良親王が大宰府に征西府を置く
1371年今川了俊が九州探題となる
1372年了俊が大宰府を取り戻す

両軍の陣容

征西府(懐良親王・菊池武光)約4万約300

部隊兵力その後
懐良親王総大将
菊池武光
夜襲の決死隊300人

幕府方(少弐頼尚)約6万—

部隊兵力その後
少弐頼尚総大将逃走
大友氏など敗走
幕府方敗走

決め手

川を渡る激戦

夜明けとともに南朝軍が川を渡って総攻撃をかけた。懐良親王自身も3か所に傷を負い、菊池一族にも多くの戦死者が出た。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「南北朝 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『太平記』、森茂暁『懐良親王』(ミネルヴァ書房)