合戦絵巻 ─ 南北朝 勢力図

鎌倉幕府の滅亡

1333年5月18日〜22日 / 相模 鎌倉

5月18日

三方から攻める

1粒=約100人

1333年(元弘3年)5月18日から22日にかけて、新田義貞の軍が鎌倉を攻め落とした。三方を山、一方を海に囲まれた鎌倉に、義貞は稲村ヶ崎の海岸づたいに攻め入った。北条高時ら北条一族は東勝寺で自害し、約150年続いた鎌倉幕府は滅んだ。上野で挙兵してから、わずか15日後のことだった。

上の観戦プレイヤーでは、新田義貞—と鎌倉幕府(北条氏)—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

新田義貞
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鎌倉幕府(北条氏)
—
いつ
5月18日 → 結果

なぜ戦ったのか

1333年、後醍醐天皇の倒幕の呼びかけに応じる武士が各地で増えていた。楠木正成は千早城で幕府の大軍を食い止め、5月7日には、幕府に背いた足利高氏が京の六波羅探題を攻め落とした。

上野の新田義貞は、源氏の名門でありながら、幕府のもとで重く用いられていなかった。幕府から多額の軍資金を求められたことに反発し、5月8日、上野の生品神社で兵を挙げた。

義貞が南へ進むと、関東の武士たちが次々に加わった。小手指原・分倍河原で幕府軍を破った義貞の軍は、数万にふくれ上がって鎌倉へ迫った。足利高氏の幼い子・千寿王も、この軍に加わっていた。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

15月18日

三方から攻める

鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれた守りやすい町で、入口は切通しと呼ばれる狭い坂道だけだった。新田義貞は軍を3つに分け、極楽寺坂・巨福呂坂・化粧坂から攻めた。

25月18日〜20日

切通しの激戦

幕府軍は切通しを必死に守り、新田軍は3日たっても鎌倉に入れなかった。極楽寺坂の義貞の本隊も押し返された。

35月21日 夜

稲村ヶ崎

義貞は稲村ヶ崎の岬に立ち、黄金の太刀を海に投げ入れて竜神に祈った。すると潮が大きく引き、岬の下の海岸を渡れるようになったという。

45月22日

鎌倉に攻め入る

干潟を渡った新田軍は、海沿いから鎌倉の町に攻め入り、町に火を放った。守りを固めていた幕府軍は背後を突かれて崩れた。

55月22日

東勝寺

北条高時と一族・家臣800人以上は、北条氏の菩提寺の東勝寺に集まり、火を放って自害した。約150年続いた鎌倉幕府は滅んだ。

6結果

鎌倉幕府の滅亡

新田義貞の挙兵からわずか15日で鎌倉は落ちた。しかし鎌倉には、義貞より先に足利高氏の子・千寿王(のちの義詮)が入っていて、関東の武士の多くは足利氏についた。これがのちの新田・足利の対立の種となった。

勝敗を分けたもの

鎌倉の守りの堅さ

鎌倉の町に入る道は、山を切り開いた「切通し」と呼ばれる狭い坂道しかなかった。幕府軍は極楽寺坂・巨福呂坂・化粧坂の切通しを固め、新田軍は3日たっても町に入れなかった。

稲村ヶ崎の突破

義貞は、山が海に突き出した稲村ヶ崎の海岸づたいに攻め入る道を選んだ。潮が引いたすきに干潟を渡り、守りの手薄な海側から鎌倉の町へなだれこんだ。

関東の武士の離反

幕府の本拠の関東でさえ、多くの武士が新田軍に加わった。北条氏に従う武士は少なくなっており、幕府にはもはや鎌倉を守りきる力が残っていなかった。

主な武将とその後

新田義貞新田義貞

上野の武士。鎌倉を攻め落とす大功を立てたが、建武の新政のあと足利尊氏と対立した。1338年、越前の藤島で討死した。

北条高時鎌倉幕府(北条氏)

鎌倉幕府の14代執権。闘犬や田楽にふけったと『太平記』に描かれる。執権を退いたあとも実権を持っていたが、東勝寺で一族とともに自害した。31歳だった。

千寿王(足利義詮)新田義貞

足利高氏の子。4歳ほどで新田軍に加わった。のちに室町幕府の2代将軍となる。関東の武士の多くは、新田よりも、この千寿王のもとに集まったといわれる。

合戦のあと

北条高時をはじめ、北条一族と家臣800人以上が東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅んだ。1185年ごろから続いた武家政権は、いったん幕を閉じた。後醍醐天皇は京に戻り、建武の新政を始めた。

しかし鎌倉を落としたあと、関東の武士の多くは、新田義貞ではなく足利氏のもとに集まった。義貞と足利尊氏の対立はここから始まり、やがて南北朝の動乱へとつながっていく。

諸説と論点

黄金の太刀と竜神

義貞が黄金の太刀を海に投げ入れて竜神に祈ると、潮が大きく引いた――という話は『太平記』による。実際には、潮の満ち引きを調べたうえで、干潮の時を狙って海岸を渡ったと考えられている。

海岸は通れたのか

当時の稲村ヶ崎まわりの海岸線は今とは違っており、潮が引けば岬の下の浜を人馬が通れた可能性が指摘されている。幕府方も海側に船や逆茂木を備えていたとされ、義貞がその守りの手薄なときを狙ったとみられる。

鎌倉幕府の滅亡はいつか

鎌倉幕府の始まりは1185年や1192年など諸説あるが、終わりは、北条高時が東勝寺で自害した1333年5月22日とするのが一般的である。

関連年表

1333年閏2月後醍醐天皇が隠岐を脱出
1333年5月7日足利高氏が六波羅探題を攻め落とす
1333年5月8日新田義貞が上野で挙兵
1333年5月11日〜16日小手指原・分倍河原の戦い
1333年5月18日〜22日鎌倉の戦い。稲村ヶ崎を越えて鎌倉に攻め入る
1333年5月22日北条高時らが東勝寺で自害。鎌倉幕府が滅ぶ
1334年建武の新政が始まる

両軍の陣容

新田義貞—

部隊兵力その後
新田義貞総大将本隊
新田軍巨福呂坂敗走
新田軍化粧坂敗走

鎌倉幕府(北条氏)—

部隊兵力その後
北条高時総大将炎上
幕府軍極楽寺坂敗走
幕府軍敗走
幕府軍敗走
幕府の船逃走

決め手

稲村ヶ崎

義貞は稲村ヶ崎の岬に立ち、黄金の太刀を海に投げ入れて竜神に祈った。すると潮が大きく引き、岬の下の海岸を渡れるようになったという。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「南北朝 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『太平記』、『梅松論』