合戦絵巻 ─ 南北朝 勢力図

千早城の戦い

1333年2月〜5月 / 河内 千早城

1333年2月

山城にこもる

1粒=約100人

1333年(元弘3年・正慶2年)の2月から5月にかけて、河内国の千早城(いまの大阪府千早赤阪村)で、楠木正成がわずか1000ほどの兵で鎌倉幕府の大軍を食い止めた。大石や丸太、わら人形まで使った奇策で幕府軍を翻弄し、100日近く城を守りぬいた。この籠城が、全国の武士が幕府にそむくきっかけとなった。

上の観戦プレイヤーでは、楠木正成約1,000と鎌倉幕府軍—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

楠木正成
約1,000
鎌倉幕府軍
—
いつ
1333年2月 → 結果

なぜ戦ったのか

鎌倉時代の終わり、後醍醐天皇は幕府を倒して天皇中心の政治を取り戻そうとした。1331年に挙兵したが失敗し(元弘の変)、翌年、隠岐へ流された。

このとき天皇方について河内の赤坂城で兵を挙げたのが、楠木正成である。赤坂城は落ちたが、正成は姿を消し、1332年の暮れに再び兵を挙げた。後醍醐天皇の皇子・護良親王も吉野で挙兵し、畿内の各地で幕府に対する戦いが広がった。

幕府は関東から大軍を送った。正成は金剛山の中腹に千早城を築いてこもった。まわりを深い谷に囲まれ、尾根づたいにしか近づけない、天然の要害だった。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

11333年2月

山城にこもる

赤坂城の後、楠木正成は金剛山の千早城にこもった。幕府は関東から大軍を送り、城を幾重にも囲んだ。

22月末

大石と丸太

幕府軍が崖を登ってくると、城の上から大石や丸太を落とし、弓で射かけた。一日で数千人が死傷したという。

33月

わら人形

夜のうちに、甲冑を着せたわら人形を城の外に並べた。朝、人形めがけて攻め寄せた幕府軍に、大石を落としてさんざんに打ち破った。

44月

空中のはしご

幕府軍は谷に長いはしごを架けて城へ渡ろうとした。楠木勢は、はしごに油をかけて火を放ち、はしごは燃え落ちた。

54月

はしごの炎上

はしごの上にいた兵は谷へ落ちていった。幕府軍は力攻めをやめ、兵糧攻めに切りかえたが、山のゲリラ(野伏)が補給を襲った。

6結果

千早城の戦いの結果

一つの山城を大軍で100日近く攻めても落とせないことが知れ渡り、各地の武士が次々に幕府にそむいた。5月、六波羅と鎌倉が落ちると、幕府軍は囲みを解いて逃げ去った。

勝敗を分けたもの

地形を生かした守り

千早城へは急な斜面を登らなければならない。正成は登ってくる敵に大石や丸太を落とし、弓で射かけた。幕府軍は数の多さを生かせず、攻めるたびに大きな損害を出した。

奇策の数々

甲冑を着せたわら人形を並べて敵をおびき寄せたり、谷に架けられたはしごに油をかけて焼き落としたりと、正成は次々に奇策をくり出したと『太平記』は描く。

補給を断つゲリラ

幕府軍は兵糧攻めに切りかえたが、山の中では護良親王の配下や「野伏」と呼ばれる地元の武装した人々が、幕府軍の補給をくり返し襲った。囲んでいる側のほうが飢えに苦しんだ。

主な武将とその後

楠木正成楠木正成

河内の武士。出自ははっきりしないが、後醍醐天皇に忠義を尽くした武将として、のちに大きくたたえられた。1336年、湊川の戦いで足利尊氏に敗れて自害した。

護良親王楠木正成

後醍醐天皇の皇子。吉野などで兵を挙げ、各地の武士に幕府打倒を呼びかけた。建武の新政のあと足利尊氏と対立し、鎌倉に幽閉されて殺された。

後醍醐天皇楠木正成

隠岐に流されていたが、千早城の戦いのさなかの1333年閏2月に島を抜け出し、伯耆の船上山で再び兵を挙げた。

合戦のあと

大軍で一つの山城を100日近く攻めても落とせないことが知れわたると、各地の武士が次々に幕府にそむいた。幕府から派遣された足利高氏(尊氏)も天皇方に寝返り、5月7日に京の六波羅探題を攻め落とした。

関東では新田義貞が挙兵して鎌倉を攻め、5月22日に北条高時らが自害して鎌倉幕府は滅んだ。千早城を囲んでいた幕府軍は、囲みを解いて逃げ去った。後醍醐天皇は京に戻り、建武の新政が始まる。

諸説と論点

『太平記』の奇策はどこまで本当か

わら人形や、はしごを焼き落とした話などは、軍記物の『太平記』による。誇張も多いと考えられているが、正成が少ない兵で長く城を守り、幕府軍に大きな損害を与えたことは確かとされる。

幕府軍は100万だったのか

『太平記』は幕府軍を「百万騎」と書いているが、これは大げさな表現で、実際は数万ほどだったとみられている。

楠木正成とは何者か

正成は河内の土豪とも、商業や流通に関わる「悪党」とも呼ばれる新しいタイプの武士だったともいわれる。もとは幕府や北条氏に仕えていたとする説もあり、その出自はなお議論が続いている。

関連年表

1324年正中の変。後醍醐天皇の倒幕計画が発覚
1331年元弘の変。後醍醐天皇が挙兵、楠木正成が赤坂城で挙兵
1332年3月後醍醐天皇が隠岐へ流される
1333年2月〜5月千早城の戦い
1333年閏2月後醍醐天皇が隠岐を脱出
1333年5月7日足利高氏が六波羅探題を攻め落とす
1333年5月22日鎌倉幕府が滅ぶ
1336年5月湊川の戦い。楠木正成が自害

両軍の陣容

楠木正成約1,000

部隊兵力その後
楠木正成総大将約1000包囲
わら人形
護良親王のゲリラ

鎌倉幕府軍—

部隊兵力その後
幕府軍総大将数万(号)傍観
幕府軍敗走
幕府軍敗走
長いはしご炎上

決め手

わら人形

夜のうちに、甲冑を着せたわら人形を城の外に並べた。朝、人形めがけて攻め寄せた幕府軍に、大石を落としてさんざんに打ち破った。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「南北朝 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『太平記』、新井孝重『楠木正成』(吉川弘文館)