菊

南北朝(太平記)勢力図の人物

楠木正成くすのき まさしげ

生年不詳〜1336年 / 河内の武士 / 後醍醐天皇方・南朝

河内の小さな武士が、わずかな兵と山城で幕府の大軍を翻弄した。最後は、勝てないとわかっていた湊川へ向かった。

赤坂城・千早城で幕府軍を苦しめた。湊川で戦死。のちに忠臣の手本とされた。

後醍醐天皇方・南朝の勢力

運命の分かれ目

  1. 1331年9月

    赤坂城で兵を挙げる

    河内の武士で、出自にはわからないことが多い。後醍醐天皇の倒幕の計画に応じ、河内の赤坂城で兵を挙げた。幕府の大軍に囲まれると、城に火を放ち、自分が死んだと見せかけて姿を消した。

    勢力図でこの日を見る

  2. 翌年、再び兵を挙げて、赤坂城を取り返した。

  3. 1333年2月

    千早城の戦い

    金剛山の千早城に、わずか1000人ほどでこもり、数万といわれる幕府の大軍を、3か月にわたって防いだ。幕府軍が千早城にくぎづけになっているあいだに、各地で幕府に背く動きが広がった。

    勢力図でこの日を見る合戦絵巻で見る

  4. 5月、鎌倉幕府は滅んだ。正成は、建武の新政で河内・和泉の守護などに任じられた。

  5. 1336年1月

    尊氏を京から追う

    新政に背いて攻め上った足利尊氏の軍を、北畠顕家・新田義貞とともに京で破り、九州へ追いやった。正成は、尊氏と和睦するよう天皇に進言したが、退けられたと『梅松論』は伝える。

    勢力図でこの日を見る

  6. 尊氏はわずか3か月で九州の武士をまとめ、大軍で攻め上ってきた。正成は、天皇をいったん比叡山に移して京で迎え撃つ策を出したが、受け入れられなかった。

  7. 1336年5月

    湊川の戦い

    命じられたとおり、わずかな兵で摂津の湊川に出陣し、尊氏の大軍を迎え撃った。数時間の戦いのすえ、弟の正季と刺し違えて自害した。「七たび生まれ変わって、朝敵を滅ぼしたい」と誓ったと『太平記』は伝える。

    勢力図でこの日を見る合戦絵巻で見る

年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。

通説と実像

よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。

諸説

「桜井の別れ」で、子の正行に後を託した

湊川に向かう途中、摂津の桜井で11歳の正行を河内に帰したという名場面は『太平記』の話。正行はのちに四條畷で戦死した。

諸説

千早城で、わら人形や熱湯で敵を防いだ

『太平記』に描かれた奇策の数々は、物語としての誇張が多い。大軍をよく防いだことは確か。

後世の創作

「七生報国」を誓った

『太平記』では「七生滅賊(七たび生まれて敵を滅ぼす)」。「七生報国」という言い方は、ずっと後に、国のために命を捧げる言葉として広められた。

諸説

尊氏との和睦を天皇にすすめた

尊氏方の立場で書かれた『梅松論』に見える話で、正成が尊氏の力を高く評価していたことを示すものとされる。

数字で見る正成

勢力が最も広かった年1334年71地域・約29万km²
そのときの広さ100%この地図の範囲(北海道・沖縄をのぞく日本)のうち。その年の勢力の中で1位
地図に記された戦い4回南北朝(太平記)勢力図の出来事のうち、正成の名前が出てくる戦い

広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。

つながり

主役のバトン

楠木正成生年不詳〜1336年

正成が死んだあと

1336年(死んだ時点)
1346年(10年後)
47死
91年後
82年後
83年後
94年後
95年後
96年後
97年後
88年後
89年後
810年後

後醍醐天皇方・南朝の勢力は、正成が死んだ時点で地図の上の47地域。10年後には8地域。勢力の名は「建武政権」から「南朝」に変わった。死んだ時点の後醍醐天皇方・南朝の地域は、10年後には足利氏・室町幕府が39地域を支配していた。

死んだ年の勢力図を開く

地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。

同じ時代、世界では

正成が出てくる合戦絵巻

略年譜(南北朝(太平記)勢力図の出来事から)

参考