運命の分かれ目
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1331年9月
赤坂城で兵を挙げる
河内の武士で、出自にはわからないことが多い。後醍醐天皇の倒幕の計画に応じ、河内の赤坂城で兵を挙げた。幕府の大軍に囲まれると、城に火を放ち、自分が死んだと見せかけて姿を消した。
翌年、再び兵を挙げて、赤坂城を取り返した。
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1333年2月
千早城の戦い
金剛山の千早城に、わずか1000人ほどでこもり、数万といわれる幕府の大軍を、3か月にわたって防いだ。幕府軍が千早城にくぎづけになっているあいだに、各地で幕府に背く動きが広がった。
5月、鎌倉幕府は滅んだ。正成は、建武の新政で河内・和泉の守護などに任じられた。
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1336年1月
尊氏を京から追う
新政に背いて攻め上った足利尊氏の軍を、北畠顕家・新田義貞とともに京で破り、九州へ追いやった。正成は、尊氏と和睦するよう天皇に進言したが、退けられたと『梅松論』は伝える。
尊氏はわずか3か月で九州の武士をまとめ、大軍で攻め上ってきた。正成は、天皇をいったん比叡山に移して京で迎え撃つ策を出したが、受け入れられなかった。
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1336年5月
湊川の戦い
命じられたとおり、わずかな兵で摂津の湊川に出陣し、尊氏の大軍を迎え撃った。数時間の戦いのすえ、弟の正季と刺し違えて自害した。「七たび生まれ変わって、朝敵を滅ぼしたい」と誓ったと『太平記』は伝える。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
諸説
「桜井の別れ」で、子の正行に後を託した
湊川に向かう途中、摂津の桜井で11歳の正行を河内に帰したという名場面は『太平記』の話。正行はのちに四條畷で戦死した。
諸説
千早城で、わら人形や熱湯で敵を防いだ
『太平記』に描かれた奇策の数々は、物語としての誇張が多い。大軍をよく防いだことは確か。
後世の創作
「七生報国」を誓った
『太平記』では「七生滅賊(七たび生まれて敵を滅ぼす)」。「七生報国」という言い方は、ずっと後に、国のために命を捧げる言葉として広められた。
諸説
尊氏との和睦を天皇にすすめた
尊氏方の立場で書かれた『梅松論』に見える話で、正成が尊氏の力を高く評価していたことを示すものとされる。
数字で見る正成
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
盟友
主役のバトン
正成が死んだあと
後醍醐天皇方・南朝の勢力は、正成が死んだ時点で地図の上の47地域。10年後には8地域。勢力の名は「建武政権」から「南朝」に変わった。死んだ時点の後醍醐天皇方・南朝の地域は、10年後には足利氏・室町幕府が39地域を支配していた。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
正成が出てくる合戦絵巻
略年譜(南北朝(太平記)勢力図の出来事から)
参考
- 新井孝重『楠木正成』(吉川弘文館)
- 兵藤裕己 校注『太平記』(岩波文庫)