運命の分かれ目
-
1331年8月44歳
元弘の変
天皇自らが政治を行う世を目指し、鎌倉幕府を倒す計画を立てた。1324年の正中の変に続いて、2度目の計画も漏れ、京を逃れて笠置山にこもった。楠木正成が河内で兵を挙げたが、笠置山は落ち、天皇は捕らえられた。44歳だった。
1333年閏2月、隠岐を抜け出し、伯耆の名和長年に迎えられて船上山に立てこもった。足利高氏(尊氏)・新田義貞が幕府に背き、5月、京の六波羅探題と鎌倉幕府が相次いで倒れた。
-
1333年6月46歳
建武の新政
京に戻り、天皇が自ら政治を行う新しい政治を始めた(建武の新政)。しかし、恩賞の分け方や、武士の慣習を無視した政治に不満が広がった。「二条河原の落書」は、都の混乱ぶりを皮肉った。
1335年、中先代の乱をしずめるため鎌倉に下った足利尊氏が、新政に背いた。
-
1336年12月49歳
吉野へ逃れ、南朝を開く
湊川の戦いで楠木正成が討たれ、尊氏が京を押さえた。後醍醐天皇はいったん和睦して神器を渡したが、ひそかに京を抜け出して吉野に入り、渡した神器は偽物だとして、自分こそが正しい天皇だと宣言した。朝廷が南と北に分かれた。
1338年、北畠顕家と新田義貞が相次いで戦死した。
-
1339年8月52歳
吉野で亡くなる
病に倒れ、子の義良親王(後村上天皇)に位をゆずって亡くなった。52歳だった。「体は吉野の山の苔に埋もれても、魂は常に北の京の空を望んでいる」と言い残したと『太平記』は伝える。南北朝の争いは、その後50年あまり続いた。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
居所の移り変わり
- 1
京
1318年〜1331年(31〜44歳)天皇として政治の改革を目指した。
- 2
隠岐
1332年〜1333年(45〜46歳)幕府に流された島。
- 3
船上山
1333年〜1333年(46〜46歳)隠岐を抜け出し、名和長年に迎えられた。
- 4
京(建武の新政)
1333年〜1336年(46〜49歳)幕府を倒して戻り、新しい政治を始めた。
- 5
吉野
1336年〜1339年(49〜52歳)京を逃れて南朝を開いた。ここで亡くなった。
地図は1336年の勢力図に、居所の位置を重ねたものです。濃い色が後醍醐天皇方・南朝の勢力です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
「二条河原の落書」で政治を皮肉られた
「このごろ都にはやるもの、夜討ち・強盗・にせ綸旨」で始まる落書が、『建武年間記』に書き留められている。
諸説
「玉骨はたとえ南山の苔に埋まるとも」と言い残した
『太平記』に見える遺言。物語として整えられた言葉とみられる。
史料にある
吉野で、渡した神器は偽物だと言った
尊氏と和睦して北朝に神器を渡したが、吉野に入ると、渡したのは偽物で本物は自分の手もとにあると主張した。どちらが本物だったかは、今もわからない。
諸説
建武の新政は、すぐに失敗した
3年足らずで崩れたのは確か。ただ、新政で始まった仕組みの中には、室町幕府に引き継がれたものもあるとする研究がある。
数字で見る後醍醐
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
家臣
主役のバトン
後醍醐が死んだあと
後醍醐天皇方・南朝の勢力は、後醍醐が死んだ時点で地図の上の8地域。10年後には6地域。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
後醍醐が生まれたころの世界
- 1282年ヨーロッパシチリアの晩祷事件
- 1288年東南アジア白藤江の戦い(大越が元の水軍を破る)
- 1291年西アジア十字軍の最後の拠点アッコンが落ちる
- 1293年東南アジア元のジャワ遠征が失敗する
後醍醐が出てくる合戦絵巻
略年譜(南北朝(太平記)勢力図の出来事から)
参考
- 森茂暁『後醍醐天皇』(中公新書)
- 兵藤裕己 校注『太平記』(岩波文庫)