菊

南北朝(太平記)勢力図の人物

後醍醐天皇ごだいご てんのう

1288年〜1339年(数え52歳) / 天皇・南朝 / 後醍醐天皇方・南朝

2度の倒幕の計画に失敗し、島に流されても、あきらめなかった。鎌倉幕府を倒した天皇は、3年で京を追われ、吉野で生涯を閉じた。

鎌倉幕府を倒して建武の新政を行い、のちに吉野に南朝を開いた。

後醍醐天皇方・南朝の勢力

運命の分かれ目

  1. 1331年8月44歳

    元弘の変

    天皇自らが政治を行う世を目指し、鎌倉幕府を倒す計画を立てた。1324年の正中の変に続いて、2度目の計画も漏れ、京を逃れて笠置山にこもった。楠木正成が河内で兵を挙げたが、笠置山は落ち、天皇は捕らえられた。44歳だった。

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  2. 1332年3月45歳

    隠岐に流される

    幕府によって隠岐に流された。そのあいだにも、子の護良親王や楠木正成が各地で幕府軍と戦い続けた。

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  3. 1333年閏2月、隠岐を抜け出し、伯耆の名和長年に迎えられて船上山に立てこもった。足利高氏(尊氏)・新田義貞が幕府に背き、5月、京の六波羅探題と鎌倉幕府が相次いで倒れた。

  4. 1333年6月46歳

    建武の新政

    京に戻り、天皇が自ら政治を行う新しい政治を始めた(建武の新政)。しかし、恩賞の分け方や、武士の慣習を無視した政治に不満が広がった。「二条河原の落書」は、都の混乱ぶりを皮肉った。

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  5. 1335年、中先代の乱をしずめるため鎌倉に下った足利尊氏が、新政に背いた。

  6. 1336年12月49歳

    吉野へ逃れ、南朝を開く

    湊川の戦いで楠木正成が討たれ、尊氏が京を押さえた。後醍醐天皇はいったん和睦して神器を渡したが、ひそかに京を抜け出して吉野に入り、渡した神器は偽物だとして、自分こそが正しい天皇だと宣言した。朝廷が南と北に分かれた。

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  7. 1338年、北畠顕家と新田義貞が相次いで戦死した。

  8. 1339年8月52歳

    吉野で亡くなる

    病に倒れ、子の義良親王(後村上天皇)に位をゆずって亡くなった。52歳だった。「体は吉野の山の苔に埋もれても、魂は常に北の京の空を望んでいる」と言い残したと『太平記』は伝える。南北朝の争いは、その後50年あまり続いた。

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年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。

居所の移り変わり

  1. 1

    京

    1318年〜1331年(31〜44歳)

    天皇として政治の改革を目指した。

  2. 2

    隠岐

    1332年〜1333年(45〜46歳)

    幕府に流された島。

  3. 3

    船上山

    1333年〜1333年(46〜46歳)

    隠岐を抜け出し、名和長年に迎えられた。

  4. 4

    京(建武の新政)

    1333年〜1336年(46〜49歳)

    幕府を倒して戻り、新しい政治を始めた。

  5. 5

    吉野

    1336年〜1339年(49〜52歳)

    京を逃れて南朝を開いた。ここで亡くなった。

地図は1336年の勢力図に、居所の位置を重ねたものです。濃い色が後醍醐天皇方・南朝の勢力です。

通説と実像

よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。

史料にある

「二条河原の落書」で政治を皮肉られた

「このごろ都にはやるもの、夜討ち・強盗・にせ綸旨」で始まる落書が、『建武年間記』に書き留められている。

諸説

「玉骨はたとえ南山の苔に埋まるとも」と言い残した

『太平記』に見える遺言。物語として整えられた言葉とみられる。

史料にある

吉野で、渡した神器は偽物だと言った

尊氏と和睦して北朝に神器を渡したが、吉野に入ると、渡したのは偽物で本物は自分の手もとにあると主張した。どちらが本物だったかは、今もわからない。

諸説

建武の新政は、すぐに失敗した

3年足らずで崩れたのは確か。ただ、新政で始まった仕組みの中には、室町幕府に引き継がれたものもあるとする研究がある。

数字で見る後醍醐

勢力が最も広かった年1334年71地域・約29万km²(47歳)
そのときの広さ100%この地図の範囲(北海道・沖縄をのぞく日本)のうち。その年の勢力の中で1位
地図に記された戦い3回南北朝(太平記)勢力図の出来事のうち、後醍醐の名前が出てくる戦い
居所を移した回数4回京 → 隠岐 → 船上山 → 京(建武の新政) → 吉野

広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。

つながり

主役のバトン

後醍醐が死んだあと

1339年(死んだ時点)
1349年(10年後)
8死
91年後
92年後
93年後
94年後
85年後
86年後
87年後
88年後
69年後
610年後

後醍醐天皇方・南朝の勢力は、後醍醐が死んだ時点で地図の上の8地域。10年後には6地域。

死んだ年の勢力図を開く

地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。

同じ時代、世界では

マルコ・ポーロヨーロッパ・1254年〜1324年・後醍醐より34歳年上クビライの元に仕え、『東方見聞録』を残したとされる。
イブン・バットゥータアフリカ・西アジア・1304年〜1368年・後醍醐より16歳年下アフリカからアジアまで旅したモロッコの旅行家。
ダンテヨーロッパ・1265年〜1321年・後醍醐より23歳年上『神曲』を書いたフィレンツェの詩人。
忠烈王・1236年〜1308年・後醍醐より52歳年上クビライの娘を妃とし、元の日本遠征に協力した。亀山上皇・1249年〜1305年・後醍醐より39歳年上国難にあたって、伊勢神宮などに「わが身をもって国難に代えたい」と祈ったと伝えられる。大覚寺統の祖。金方慶・1212年〜1300年・後醍醐より76歳年上三別抄を討ち、文永・弘安の役で高麗軍を率いた。

後醍醐が生まれたころの世界

後醍醐が出てくる合戦絵巻

略年譜(南北朝(太平記)勢力図の出来事から)

参考