運命の分かれ目
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1333年4月29歳
幕府に背き、六波羅を攻める
源氏の名門・足利家の当主として、幕府の命で後醍醐天皇方を討つため西へ向かった。しかし丹波の篠村八幡宮で幕府に背くことを宣言し、京の六波羅探題を攻め落とした。29歳だった。同じ月、関東では新田義貞が鎌倉を攻め落とした。
建武の新政では、天皇の名の一字をもらって「尊氏」と名を改めた。
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1335年7月31歳
中先代の乱をしずめ、新政に背く
北条時行が鎌倉を奪うと、天皇の許しを得ないまま鎌倉に下って取り返した。そのまま鎌倉にとどまり、新田義貞を討つことを名目に、天皇に背いた。
1336年1月、京に攻め上ったが、北畠顕家・楠木正成らに敗れて九州まで逃れた。
光明天皇を立て(北朝)、建武式目を定めて、室町幕府の始まりとした。後醍醐天皇は吉野に逃れた。1338年、征夷大将軍となった。
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1350年10月46歳
観応の擾乱
政治をまかせていた弟の直義と、執事の高師直が対立し、幕府が二つに割れた。尊氏は一時、南朝に降ってまで直義と戦った。1352年、直義は鎌倉で急死した。毒殺されたともいわれる。
直義の養子の直冬が、南朝と結んで京を何度も攻めた。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
諸説
有名な「騎馬武者像」は尊氏
京都国立博物館の「騎馬武者像」は、長く尊氏の肖像とされてきたが、高師直など別の人物を描いたものとする説が有力になっている。
史料にある
気前がよく、もらったものを人にすぐ与えた
禅僧の夢窓疎石が、尊氏は戦場で笑みを絶やさず、欲がなく、物をすぐ人に分け与えたとほめたことが『梅松論』に書かれている。
史料にある
後醍醐天皇を弔うため、天龍寺を建てた
夢窓疎石のすすめで、後醍醐天皇の冥福を祈るため、京の嵯峨に天龍寺を建てた。費用をつくるため、元に貿易船(天龍寺船)を送った。
諸説
天皇に背いた逆賊だった
南朝を正しいとする考え方が強まった明治以降、尊氏は「逆賊」とされた。1934年には、尊氏をほめる文章を書いた大臣が辞めさせられる事件も起きた。
数字で見る尊氏
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
家族
家臣
主役のバトン
尊氏が死んだあと
足利氏・室町幕府の勢力は、尊氏が死んだ時点で地図の上の42地域。10年後には41地域。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
尊氏が出てくる合戦絵巻
略年譜(南北朝(太平記)勢力図の出来事から)
参考
- 清水克行『足利尊氏と関東』(吉川弘文館)
- 亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書)