運命の分かれ目
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1333年5月33歳
鎌倉を攻め落とす
上野の新田荘で兵を挙げ、鎌倉街道を南へ攻め上った。分倍河原などで幕府軍を破り、鎌倉を囲んだ。稲村ヶ崎の浜から鎌倉に攻め込み、北条高時ら北条一族は東勝寺で自害して、鎌倉幕府は滅んだ。33歳だった。
建武の新政で重く用いられたが、同じ源氏の名門の足利尊氏とは並び立たなかった。
1336年1月、北畠顕家・楠木正成とともに尊氏を京から追い、九州へ追いやった。
天皇が尊氏と和睦すると、義貞は天皇の子の恒良親王・尊良親王を奉じて北陸へ下った。越前の金ヶ崎城にこもったが、翌年落とされた。
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1338年7月38歳
藤島で戦死
越前で勢いを取り戻しかけたが、藤島の戦いで、わずかな兵を連れて動いていたところを敵に囲まれ、眉間に矢を受けて自害した。38歳だった。2か月前には北畠顕家も戦死しており、南朝は大きな柱を失った。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
諸説
稲村ヶ崎で、太刀を海に投げ入れると潮が引いた
『太平記』の名場面。実際には、引き潮の時をねらって浜を渡ったとみられている。
後世の創作
勾当内侍との恋に溺れて、出陣が遅れた
『太平記』に、天皇から賜った女官の勾当内侍との別れを惜しんだ話があるが、物語の脚色とみられる。
諸説
鎌倉幕府を滅ぼしたのは、義貞ひとりの手柄だった
鎌倉攻めには、尊氏の幼い子の千寿王(のちの義詮)も加わっており、関東の武士の多くは足利方に集まった。このことが、のちの義貞と尊氏の対立の一因になったとみられる。
数字で見る義貞
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
義貞が死んだあと
後醍醐天皇方・南朝の勢力は、義貞が死んだ時点で地図の上の7地域。10年後には6地域。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
義貞が生まれたころの世界
- 1291年西アジア十字軍の最後の拠点アッコンが落ちる
- 1293年東南アジア元のジャワ遠征が失敗する
義貞が出てくる合戦絵巻
略年譜(南北朝(太平記)勢力図の出来事から)
参考
- 峰岸純夫『新田義貞』(吉川弘文館 人物叢書)
- 兵藤裕己 校注『太平記』(岩波文庫)