菊

南北朝(太平記)勢力図の人物

新田義貞にった よしさだ

1301年〜1338年(数え38歳) / 上野の武士 / 後醍醐天皇方・南朝

上野の一武士から、わずか半月で鎌倉幕府を滅ぼした。その後は同じ源氏の足利尊氏と戦い続け、北陸で倒れた。

鎌倉を攻め落として幕府を滅ぼした。南朝の総大将として尊氏と戦い、越前で戦死した。

後醍醐天皇方・南朝の勢力

運命の分かれ目

  1. 1333年5月33歳

    鎌倉を攻め落とす

    上野の新田荘で兵を挙げ、鎌倉街道を南へ攻め上った。分倍河原などで幕府軍を破り、鎌倉を囲んだ。稲村ヶ崎の浜から鎌倉に攻め込み、北条高時ら北条一族は東勝寺で自害して、鎌倉幕府は滅んだ。33歳だった。

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  2. 建武の新政で重く用いられたが、同じ源氏の名門の足利尊氏とは並び立たなかった。

  3. 1335年12月35歳

    箱根・竹ノ下の戦い

    新政に背いた尊氏を討つため、大将として東へ向かったが、箱根・竹ノ下で敗れて京に退いた。

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  4. 1336年1月、北畠顕家・楠木正成とともに尊氏を京から追い、九州へ追いやった。

  5. 1336年5月36歳

    湊川の戦い

    九州から攻め上った尊氏の軍を、楠木正成とともに摂津で迎え撃った。正成は湊川で討たれ、義貞は京へ退いた。

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  6. 天皇が尊氏と和睦すると、義貞は天皇の子の恒良親王・尊良親王を奉じて北陸へ下った。越前の金ヶ崎城にこもったが、翌年落とされた。

  7. 1338年7月38歳

    藤島で戦死

    越前で勢いを取り戻しかけたが、藤島の戦いで、わずかな兵を連れて動いていたところを敵に囲まれ、眉間に矢を受けて自害した。38歳だった。2か月前には北畠顕家も戦死しており、南朝は大きな柱を失った。

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年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。

通説と実像

よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。

諸説

稲村ヶ崎で、太刀を海に投げ入れると潮が引いた

『太平記』の名場面。実際には、引き潮の時をねらって浜を渡ったとみられている。

後世の創作

勾当内侍との恋に溺れて、出陣が遅れた

『太平記』に、天皇から賜った女官の勾当内侍との別れを惜しんだ話があるが、物語の脚色とみられる。

諸説

鎌倉幕府を滅ぼしたのは、義貞ひとりの手柄だった

鎌倉攻めには、尊氏の幼い子の千寿王(のちの義詮)も加わっており、関東の武士の多くは足利方に集まった。このことが、のちの義貞と尊氏の対立の一因になったとみられる。

数字で見る義貞

勢力が最も広かった年1334年71地域・約29万km²(34歳)
そのときの広さ100%この地図の範囲(北海道・沖縄をのぞく日本)のうち。その年の勢力の中で1位
地図に記された戦い6回南北朝(太平記)勢力図の出来事のうち、義貞の名前が出てくる戦い

広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。

つながり

主役のバトン

新田義貞1301年〜1338年(数え38歳)

義貞が死んだあと

1338年(死んだ時点)
1348年(10年後)
7死
81年後
92年後
93年後
94年後
95年後
86年後
87年後
88年後
89年後
610年後

後醍醐天皇方・南朝の勢力は、義貞が死んだ時点で地図の上の7地域。10年後には6地域。

死んだ年の勢力図を開く

地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。

同じ時代、世界では

イブン・バットゥータアフリカ・西アジア・1304年〜1368年・義貞より3歳年下アフリカからアジアまで旅したモロッコの旅行家。
マルコ・ポーロヨーロッパ・1254年〜1324年・義貞より47歳年上クビライの元に仕え、『東方見聞録』を残したとされる。
ダンテヨーロッパ・1265年〜1321年・義貞より36歳年上『神曲』を書いたフィレンツェの詩人。
朱元璋(洪武帝)中国・1328年〜1398年・義貞より27歳年下貧しい農民から明を建てた皇帝。

義貞が生まれたころの世界

義貞が出てくる合戦絵巻

略年譜(南北朝(太平記)勢力図の出来事から)

参考