今の弟子屈町
釧路総合振興局管内の川上郡にある町で、釧路・根室連携地域の北部に位置します。屈斜路カルデラと、その東の摩周カルデラの麓にあり、東は根室高原、南は標茶町を経て釧路湿原につながります。町内は山林が多くを占めます。主要産業は観光と酪農で、摩周湖、屈斜路湖、川湯温泉、硫黄山などがあります。そばや珈琲などの特産品も作られています。
今の弟子屈町の区域の人口は、2020年の国勢調査で6,955人です。今の区域で数えた1980年の12,206人とくらべると43.0%減り、人口は1980年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は41.6%です。
主な産業:観光と酪農が主要産業で、そばなども作られています。
特産品・名産
- 摩周そば町内の畑で収穫される特産のそば
- 摩周珈琲町振興公社が販売する町特産の珈琲
- 酪農製品酪農は観光とならぶ主要産業
見どころ・祭り
- 摩周湖透明度の高いカルデラ湖。北海道遺産
- 屈斜路湖日本最大のカルデラ湖
- 硫黄山(アトサヌプリ)標高512mの活火山
- 川湯温泉川湯園地や大鵬相撲記念館のある温泉地
木サクラ花ツツジ鳥白鳥弟子屈町の木・花・鳥
弟子屈町のなりたち
弟子屈町(てしかがちょう)は、北海道釧路地方の町です。1920年(大正9年)の時点ですでに弟子屈村他として今とほぼ同じ区域があり、それから一度も合併をしていない、道内でもめずらしい町です。
1920年の時点で、この区域の町村は川上郡に属していました。
「弟子屈町」という名前
「弟子屈」は、アイヌ語の「テシカカ」(岩盤の上)に由来するとされています。「テㇱ」は、川をやなのように横切る岩盤を指す語です。アイヌ語研究者の山田秀三は、釧路川を横切る岩盤を指した名ではないかと考えました。
まちの成り立ち
弟子屈では、1876年(明治9年)に佐野孫右衛門が硫黄山の試掘を始め、のちに安田善次郎が1887年(明治20年)から硫黄の採掘を始めました。1888年には輸送のために硫黄山と標茶の間に釧路鉄道が敷かれましたが、資源が尽きて1896年に操業が止まっています。1880年には更科治郎が入植して農業を始め、1885年には本山七右衛門が弟子屈温泉の開発を目的に入っています。1898年(明治31年)には農業指導者の小田切栄三郎が着任し、多くの移民を受け入れました。1903年(明治36年)8月に弟子屈外1村戸長役場が置かれ、1923年(大正12年)4月1日に二級町村制を施行して弟子屈村となります。1943年に一級町村制、1947年(昭和22年)7月1日に町制を施行して弟子屈町になり、同時に大字を廃止しました。その後、1956年から1960年にかけて、標茶町と境界を変えています。1954年(昭和29年)8月14日には昭和天皇が行幸しました。
年表
- 1923年4月1日大正12年川上郡の弟子屈村に二級町村制が施行された。種類:町村制 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1943年4月1日昭和18年弟子屈村が一級町村制を施行した。種類:町村制 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1947年7月1日昭和22年弟子屈村が町制を施行し、弟子屈町となった。種類:町制施行 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1956年1月1日昭和31年弟子屈町の熊牛地区が標茶町に編入された。種類:一部編入 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1957年1月1日昭和32年標茶町の奥オソツベツ地区が弟子屈町に編入された。種類:一部編入 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1960年8月1日昭和35年弟子屈町の虹別萩野地区が標茶町に編入された。種類:一部編入 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
名前の歩み
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。