今の標茶町
釧路総合振興局管内の川上郡の町で、管内のほぼ中央にあります。町を釧路川が南北に流れ、川に沿って釧網本線や国道391号が通ります。南部には釧路湿原が広がり、湿原の面積の多くが標茶町にあたります。主要産業は酪農で、乳牛の頭数は増えてきました。塘路湖やシラルトロ湖などの湖があり、トロッコ列車が湿原を走ります。
今の標茶町の区域の人口は、2020年の国勢調査で7,230人です。今の区域で数えた1980年の12,297人とくらべると41.2%減り、人口は1980年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は34.2%です。
主な産業:酪農が主要産業で、牛肉や乳製品も生産されます。
特産品・名産
- 星空の黒牛町が看板に掲げる牛肉のブランド
- 切れてるバター町内の工場で作られるバター
- 生クリーム町内の工場で作られる乳製品
見どころ・祭り
- 釧路湿原町の南部に広がる日本最大の湿原
- 塘路湖釧路湿原で最大の湖
- 多和平地平線が見える大牧場の丘
- 標茶町郷土館釧路集治監の建物を使った郷土館
木ナラ花コスモス標茶町の木・花
標茶町のなりたち
標茶町(しべちゃちょう)は、北海道釧路地方の町です。今の町の区域には、1920年(大正9年)の時点で、3の町村がありました。虹別村・太田村・塘路村です。これらの町村が、1回の合併や編入を経て、今の標茶町になりました。
今の名前「標茶町」は、1920年にあったどの町村の名前とも違い、合併のときに新しくつけられた名前です。もとの3の町村の名前は、自治体の名前としてはすべて消えました。
1920年の時点で、この区域の町村は厚岸郡・川上郡に属していました。
「標茶町」という名前
「標茶」は、アイヌ語の「シペッチャ」(大きな川のほとり)に由来するとされています。今の市街地のあたりを呼んだ名で、釧路川の岸を指しました。アイヌ語研究者の山田秀三は、標津や斜里から山を越えて、はじめて釧路川の大きな流れに出る所だからではないかと考えました。
まちの成り立ち
標茶では、1858年(安政5年)に佐野孫右衛門が鮭番屋を置きました。1885年(明治18年)に熊牛村外4村戸長役場が置かれ、同じ年に熊牛村の標茶に釧路集治監が開かれて、一時は釧路に並ぶほどのにぎわいを見せます。1887年には、硫黄山の硫黄を運ぶ釧路鉄道の建設が始まりました。1901年に集治監が廃止され、1903年に弟子屈村などが分かれると人口が減りましたが、1908年に軍馬補充部が置かれて町は再び活気づきました。1923年(大正12年)4月1日、熊牛村・塘路村・虹別村がまとまって二級町村制を施行し、熊牛村となりました。1929年(昭和4年)8月5日には、熊牛村を標茶村と改めています。1950年(昭和25年)11月1日に町制を施行して標茶町になり、1955年には太田村の茶安別地区を編入しました。その後、弟子屈町との間で何度か境界を変えています。南部には釧路湿原が広がり、酪農が町の中心の産業です。
年表
- 1923年4月1日大正12年川上郡の熊牛村・塘路村・虹別村がまとまって二級町村制を施行し、熊牛村となった。種類:新設合併 出典:Wikipedia
- 1929年8月5日昭和4年熊牛村が名前を改め、標茶村となった。種類:改称 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1950年11月1日昭和25年標茶村が町制を施行し、標茶町となった。種類:町制施行 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1955年4月1日昭和30年厚岸郡太田村の茶安別地区が標茶町に編入された(太田村の残りは厚岸町に編入)。種類:一部編入 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1956年1月1日昭和31年弟子屈町の熊牛地区が標茶町に編入された。種類:一部編入 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1957年1月1日昭和32年標茶町の奥オソツベツ地区が弟子屈町に編入された。種類:一部編入 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1960年8月1日昭和35年弟子屈町の虹別萩野地区が標茶町に編入された。種類:一部編入 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。