今の標津町
根室振興局管内の中部にある町です。町域の西半は知床連山から続く山地と根釧台地で、東半は標津川や忠類川に沿った低湿な平地です。東は根室海峡に面し、海岸から国後島が見えます。南部には野付半島が突き出ています。標津川などの川にはサケがのぼり、水産業と酪農が行われています。森林が多く、林業も行われています。
今の標津町の区域の人口は、2020年の国勢調査で5,023人です。今の区域で数えた1980年の7,730人とくらべると35.0%減り、人口は1980年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は31.4%です。
主な産業:サケ・ホタテガイの漁業が盛んで、畜産と林業も行われます。
特産品・名産
- サケ秋サケなどの漁が盛んな水産物
- ホタテガイ漁獲の多い水産物
- テンサイ畜産のほかに栽培される作物
見どころ・祭り
- 野付半島根室海峡に突き出た砂嘴
- 標津サーモンパーク世界各地のサケ類を展示する施設
- 標津遺跡群擦文文化とオホーツク文化の集落跡
- 川北温泉乳白色の湯が出る町内の温泉
- 標津町北方領土館国後島などの様子を紹介する施設
木ナナカマド花ハマナス標津町の木・花
標津町のなりたち
標津町(しべつちょう)は、北海道根室地方の町です。1920年(大正9年)の時点ですでに標津村として今とほぼ同じ区域があり、それから一度も合併をしていない、道内でもめずらしい町です。
1920年の時点で、この区域の町村は標津郡に属していました。
「標津町」という名前
「標津」は、アイヌ語の「シベツ」に由来し、「大きな川」または「サケのいる所」の意味とされています。町を流れる標津川は、今もサケがのぼる川として知られます。1700年(元禄13年)の国絵図に見える「ちべ内」が、この地名の古い記録とされています。
まちの成り立ち
標津は、元禄年間(1688~1704年)に漁業で開けたと伝えられています。松前藩の領地でしたが、1799年(寛政11年)に幕府の直轄となり、1806年(文化3年)には高田屋喜兵衛が漁場の請負人になりました。1879年(明治12年)に標津に戸長役場が置かれ、1884年(明治17年)に野付郡の茶志骨村を加えて標津外6村戸長役場となりました。1901年(明治34年)9月には、植別村の戸長役場が分かれています。1923年(大正12年)4月1日に標津・伊茶仁・薫別・崎無異・忠類・茶志骨の6村の区域で二級町村制を施行して標津村となり、戸長役場は標津村役場に改められました。1929年(昭和4年)には6つの大字をやめて18の字を置いています。1946年(昭和21年)7月1日には、内陸の地域が中標津村として分かれました。1937年(昭和12年)には国鉄標津線が根室標津駅まで延びました。1958年(昭和33年)1月1日に町制を施行し、標津町となりました。町内には、擦文文化やオホーツク文化の集落跡が残る標津遺跡群があり、古くから人が暮らした土地です。
年表
- 1923年4月1日大正12年標津・伊茶仁・薫別・崎無異・忠類・茶志骨の6村の区域で二級町村制が施行され、標津村となった。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1946年7月1日昭和21年標津村から中標津村が分かれた。種類:分割 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1958年1月1日昭和33年標津村が町制を施行し、標津町となった。種類:町制施行 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
名前の歩み
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。