今の河南町
大阪府の南東部、金剛・葛城の山並みの西側に広がる町です。東は山の稜線を境に奈良県の葛城市や御所市と接します。山地の前には丘陵や段丘が広がり、農地では野菜や果物、植木などが育てられています。古代の一須賀古墳群や金山古墳が残り、近つ飛鳥博物館が歴史を伝えます。西行が生涯を終えた弘川寺もあり、里山の自然と古くからの集落が身近にある地域です。
今の河南町の区域の人口は、2020年の国勢調査で15,697人です。今の区域で数えた1980年の13,967人とくらべると12.4%ふえ、人口は2005年まではふえ、その後は少し減っています。65歳以上の人の割合は32.2%です。
主な産業:都市近郊の農業が営まれ、野菜・果物や観賞用の植木などが栽培されています。
特産品・名産
- イチジク町の農地で栽培される果物
- イチゴ町の特産に数えられる果物
- 水越米町内で生産される米
見どころ・祭り
- 大阪府立近つ飛鳥博物館古墳・飛鳥時代の歴史を伝える博物館
- 弘川寺歌人の西行が生涯を終えた寺
- 金山古墳二つの円丘を連ねた双円墳。国の史跡
木さくら花ゆり河南町の木・花
河南町のなりたち
河南町(かなんちょう)は、大阪府南河内地域の町です。今の町の区域には、1920年(大正9年)の時点で、4の町村がありました。石川村・白木村・中村・河内村です。これらの町村が、1回の合併や編入を経て、今の河南町になりました。
今の名前「河南町」は、1920年にあったどの町村の名前とも違い、合併のときに新しくつけられた名前です。もとの4の町村の名前は、自治体の名前としてはすべて消えました。
面積は、1920年の白木村が約12km²だったのに対し、今の河南町は約25km²と、およそ2.1倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は南河内郡に属していました。
「河南町」という名前
「河南町」は、1956年(昭和31年)9月30日に石川村・白木村・河内村・中村の4村が合併した際に付けられた町名です。命名の具体的な経緯ははっきりしていません。町章には「カ・ナ・ン」の文字が図案化され、内側にある四つの空白で旧4村を表しています。四つの村が一つの輪に包まれた姿を示す意匠です。
まちの成り立ち
1889年(明治22年)4月1日、今の町域には石川郡の石川村・白木村・河内村・中村が発足しました。石川村は大ヶ塚・東山・山城・一須賀、白木村は加納・白木・平石・寺田の各4村をまとめました。河内村は弘川・上河内・下河内・持尾の4村、中村は中・馬谷・芹生谷・神山・寛弘寺の5村から生まれました。1896年(明治29年)4月1日には郡の再編があり、4村はいずれも南河内郡に属しました。
1956年(昭和31年)9月30日、石川村・白木村・河内村・中村の4村が新設合併し、河南町が発足しました。翌年に決まった町章には、四つの村が一つになる姿が取り入れられました。
この土地には、寛弘寺や一須賀の古墳群など、古くからの暮らしを伝える遺跡が残ります。中世には山間に城が築かれ、大ヶ塚では16世紀から寺院を中心に町場が形づくられました。17世紀後半から19世紀には地方商業の町として栄えました。現在は山麓の農地で野菜や果物、植木などが育てられ、都市近郊の農業の町として歩んでいます。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、石川郡の大ヶ塚村・東山村・山城村・一須賀村が合併して石川村が、加納村・白木村・平石村・寺田村が合併して白木村が、弘川村・上河内村・下河内村・持尾村が合併して河内村が、中村・馬谷村・芹生谷村・神山村・寛弘寺村が合併して改めて中村が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1896年4月1日明治29年石川郡・錦部郡・八上郡・古市郡・安宿部郡・丹南郡と志紀郡の三木本村を除く区域に南河内郡が置かれ、石川郡の石川村・白木村・河内村・中村が南河内郡に属した。種類:郡の変更 出典:Wikipedia
- 1956年9月30日昭和31年南河内郡の石川村・白木村・河内村・中村が合併し、河南町が発足した。種類:新設合併 出典:www.town.kanan.osaka.jp
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。