今の太子町
大阪府の南東部、二上山のふもとにある町です。東は金剛・葛城の山並みを介して奈良県と接し、西には富田林市、北には羽曳野市が隣接します。古代には近つ飛鳥と呼ばれた地域で、聖徳太子御廟や天皇陵が集まり、竹内街道が通ります。山麓でぶどうやみかんなどの果樹が栽培され、太子ワインやみかんの加工品も作られています。御陵のある谷と丘陵の緑が町の景観を形づくっています。
今の太子町の区域の人口は、2020年の国勢調査で13,009人です。今の区域で数えた1980年の8,741人とくらべると48.8%ふえ、人口は2005年まではふえ、その後は少し減っています。65歳以上の人の割合は29.9%です。
主な産業:ぶどうやみかんなどの果樹栽培が営まれ、ワインや果実の加工品も作られています。
特産品・名産
- ぶどう町の特産として栽培される果物
- みかんソースやドレッシングにも加工される
- 太子ワインぶどうに関わる町の特産品
見どころ・祭り
- 叡福寺聖徳太子の墓を守護するために建立された寺
- 二上山雄岳と雌岳からなる町の東の山
- 竹内街道二上山の南麓を通る古い街道
木くすのき花さつき太子町の木・花
太子町のなりたち
太子町(たいしちょう)は、大阪府南河内地域の町です。今の町の区域には、1920年(大正9年)の時点で、2の町村がありました。磯長村・山田村です。これらの町村が、1回の合併や編入を経て、今の太子町になりました。
今の名前「太子町」は、1920年にあったどの町村の名前とも違い、合併のときに新しくつけられた名前です。もとの2の町村の名前は、自治体の名前としてはすべて消えました。
面積は、1920年の山田村が約7km²だったのに対し、今の太子町は約14km²と、およそ1.9倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は南河内郡に属していました。
「太子町」という名前
町名は聖徳太子にちなんでいます。1956年(昭和31年)9月30日、磯長村と山田村が合併したときに太子町と名付けられました。町には聖徳太子御廟があり、敏達・用明・推古・孝徳の各天皇陵と合わせて「梅鉢御陵」と呼ばれています。太子の墓を守る叡福寺とともに、この地と太子との関わりを伝えています。
まちの成り立ち
1889年(明治22年)4月1日の町村制で、石川郡に磯長村と山田村が発足しました。磯長村は太子・葉室・春日の3村、山田村は山田・畑の2村をまとめた村です。1896年(明治29年)4月1日には郡の再編で南河内郡が置かれ、両村も新しい郡に属しました。
1956年(昭和31年)9月30日、磯長村と山田村は新設合併し、太子町が誕生しました。町名には、この地に墓がある聖徳太子の名が採られました。旧村を構成した太子・葉室・春日・山田・畑の名は、今も町内の地名として使われています。
町の東にそびえる二上山のふもとは、古くから人々が暮らした地域です。山から産するサヌカイトは、旧石器時代から石器の材料として近畿の各地で利用されました。飛鳥時代には二上山の南麓に大道が整えられ、のちの竹内街道となりました。周辺は大和の飛鳥に対して「近つ飛鳥」と呼ばれ、天皇や皇族の古墳が数多く造られました。現在も御陵や寺院、街道が残り、二つの村から生まれた町の景観を形づくっています。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、石川郡の太子村・葉室村・春日村が合併して磯長村が、同郡の山田村・畑村が合併して改めて山田村が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1896年4月1日明治29年石川郡・錦部郡・八上郡・古市郡・安宿部郡・丹南郡と志紀郡の三木本村を除く区域に南河内郡が置かれ、石川郡の磯長村・山田村が南河内郡に属した。種類:郡の変更 出典:Wikipedia
- 1956年9月30日昭和31年南河内郡の磯長村・山田村が合併し、太子町が発足した。種類:新設合併 出典:www.town.taishi.osaka.jp
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。