今の河内長野市
大阪府の東南端にあり、奈良県と和歌山県に接するまちです。金剛山地や葛城山脈から流れ出る川が谷と河岸段丘をつくり、集落や農地が開けました。丘陵には住宅団地が広がり、南海高野線と近鉄長野線が大阪方面へ結びます。市域には森林が多く、木材の生産が続いています。観心寺や金剛寺、三日市の高野街道沿いには古い建物が残り、山里の風景とともに地域の歴史を伝えています。
今の河内長野市の区域の人口は、2020年の国勢調査で101,692人です。今の区域で数えた1980年の78,572人とくらべると29.4%ふえ、人口は2000年まではふえ、その後は少し減っています。65歳以上の人の割合は35.8%です。
主な産業:大阪近郊の住宅地で、金属製品や爪楊枝・すだれの製造、林業、商業が営まれています。
特産品・名産
- 爪楊枝地域で受け継がれてきた木製品
- すだれ竹を使った地域の工芸品
- 地酒市内で醸造される酒
見どころ・祭り
- 観心寺国宝の金堂と如意輪観音像を伝える
- 天野山金剛寺中世から続く寺院と境内
- 高野街道三日市宿街道沿いに宿場の建物が残る
- 烏帽子形城跡丘陵に残る国史跡の城跡
木クスノキ花キク河内長野市の木・花
河内長野市のなりたち
河内長野市(かわちながのし)は、大阪府南河内地域の市です。今の市の区域には、1920年(大正9年)の時点で、8の町村がありました。千代田村・天野村・長野町・川上村・三日市村・高向村・加賀田村・天見村です。これらの町村が、1回の合併や編入を経て、今の河内長野市になりました。
今の名前「河内長野市」は、1920年にあったどの町村の名前とも違い、合併のときに新しくつけられた名前です。もとの8の町村の名前は、自治体の名前としてはすべて消えました。
面積は、1920年の高向村が約37km²だったのに対し、今の河内長野市は約107km²と、およそ2.9倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は南河内郡に属していました。
「河内長野市」という名前
河内長野市という市名は、1954年に長野町と三日市村・高向村・天見村・加賀田村・川上村が合併し、新しい市が生まれたときから使われています。長野の名は、明治の長野村から長野町へと受け継がれてきました。市名を選んだ詳しい経緯や、長野という地名の語源は、はっきりしていません。
まちの成り立ち
1889年4月1日の町村制で、今の市域には錦部郡長野村・天野村・市新野村・三日市村・加賀田村・川上村・高向村・天見村の8村が発足しました。1896年には錦部郡などの区域から南河内郡が生まれ、各村の所属郡が変わります。長野村は1910年に町制を施行し、長野町となりました。市新野村は1916年4月1日に千代田村へ改称しています。
1940年6月1日、長野町・千代田村・天野村が合併しました。1954年4月1日には長野町と三日市村・高向村・天見村・加賀田村・川上村が新設合併し、河内長野市が発足しました。
高野街道が通るこの地は、京都と高野山を結ぶ交通の要所でした。三日市には宿場が置かれ、参詣客が行き交いました。1898年には高野鉄道が、1902年には河南鉄道が長野まで開通し、寺社や温泉を訪れる人も増えます。観心寺と金剛寺は中世からの歴史を伝えています。山間の集落では木材や炭、平野や谷沿いでは鋳物、酒、爪楊枝などがつくられ、地域ごとの産業が育ちました。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、錦部郡に長野村・天野村・市新野村・三日市村・加賀田村・川上村・高向村・天見村が発足した。種類:町村制 出典:www.city.kawachinagano.lg.jp
- 1896年4月1日明治29年石川郡・錦部郡・八上郡・古市郡・安宿部郡・丹南郡と志紀郡の一部の区域で南河内郡が発足し、8村は南河内郡に属した。種類:郡の変更 出典:Wikipedia
- 1910年南河内郡長野村が町制を施行し、長野町となった。種類:町制施行 出典:www.city.kawachinagano.lg.jp
- 1916年4月1日大正5年南河内郡市新野村が改称し、千代田村となった。種類:改称 出典:Wikipedia
- 1940年6月1日昭和15年南河内郡長野町・千代田村・天野村が合併し、長野町となった。種類:その他 出典:Wikipedia
- 1954年4月1日昭和29年南河内郡長野町・三日市村・高向村・天見村・加賀田村・川上村が合併し、河内長野市が発足した。種類:新設合併 出典:www.pref.osaka.lg.jp
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。