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西原町にしはらちょう

西原町は、1920年からほぼ同じ区域のまま続いている町です。

1町村から

今の西原町

沖縄本島の中部と南部の接点に位置し、東は中城湾に面する町です。西側の高台と東側の平坦な土地があり、与那原町との境には運玉森がそびえます。サトウキビ畑が広がった農村から、住宅地や工業地、商業施設が集まる町へと変わりました。大学をはじめ教育施設が集まり、「文教のまち西原」を掲げています。内間御殿や棚原石畳道など、王府時代以来の歴史を伝える場所も残ります。

今の西原町の区域の人口は、2020年の国勢調査で34,984人です。今の区域で数えた1980年の16,305人とくらべると114.6%ふえ、人口はいまもふえ続けています。65歳以上の人の割合は21.8%です。

34,984人人口(2020年)
+114.6%1980年からの増減
15.9km²面積(国土地理院)
2,200人/km²人口密度
21.8%65歳以上の割合
34,9841980199020052020
15歳未満 16.3%15〜64歳 61.9%65歳以上 21.8%
今の区域の人口(国勢調査)。各回の市町村の人口を、今の区域にまとめて集計(境界の一部の移動は含まない)。面積は国土地理院「全国都道府県市区町村別面積調」

主な産業:商工業が発達し、サトウキビや果樹・花の栽培、泡盛などの製造も行われています。

特産品・名産

  • 甕仕込み泡盛甕を使って仕込む町の特産
  • もろみ酢泡盛のもろみを利用した特産品
  • 島豆腐県の市町村概要に載る町の特産

見どころ・祭り

  • 内間御殿王府の歴史にかかわる史跡
  • 棚原石畳道棚原の集落に残る石畳の道
  • 旧西原村役場壕戦時中の村役場の壕跡
  • 小波津弾痕の残る石塀沖縄戦の痕跡を伝える石塀

木ガジマル花ブーゲンビリア西原町の木・花

西原町のなりたち

西原町(にしはらちょう)は、沖縄県中部地方の町です。1920年(大正9年)の時点ですでに西原村として今とほぼ同じ区域があり、それから一度も合併をしていない、県内でもめずらしい町です。

1920年の郡
中頭郡
11920年の町村の数
0回合併・編入の回数
16km²今の面積

「西原町」という名前

「西原」の名は、首里の北にある地方という意味に由来します。沖縄の言葉では北を「ニシ」と呼びます。王府時代の西原は首里王府の直轄領で、津堅島から泊や天久、末吉、石嶺にまで及ぶ広い地域でした。1908年(明治41年)に西原村となった後もこの名を使い、1979年(昭和54年)の町制施行で西原町となりました。

まちの成り立ち

王府時代の西原間切は首里王府の直轄領で、現在の町域を越える広い地域を含んでいました。1908年(明治41年)4月1日の町村制施行によって、中頭郡西原村となります。1920年(大正9年)頃までに、村の区域はほぼ現在の形になりました。

村内では、もとの集落から離れた場所に屋取と呼ばれる集落が生まれました。1929年(昭和4年)から1932年(昭和7年)にかけて、こうした集落がもとの字から分かれ、独立した字となっていきました。1932年には行政区が24字となりました。1945年(昭和20年)の沖縄戦では住民の約半数が犠牲となり、地域は大きな被害を受けました。戦後、人々は村の再建を進め、1972年5月15日に沖縄の日本復帰を迎えます。

産業は稲作を中心とする農業から、サトウキビや亜熱帯の果樹、花の栽培へと移っていきました。1960年代後半以降はさまざまな企業が進出し、住宅地も広がりました。1979年(昭和54年)4月1日、西原村は町制を施行して西原町となりました。大学を含む教育施設が集まる地域として、1982年度からは「文教のまち西原」を将来像に掲げています。農村から住宅・商工業・教育の機能を併せ持つ町へと姿を変えてきました。

年表

  1. 1908年4月1日明治41年町村制の施行により、西原間切が中頭郡西原村となった。種類:町村制 出典:www.pref.okinawa.jp
  2. 1972年5月15日昭和47年沖縄が日本に復帰し、西原村も日本の施政下に戻った。種類:その他 出典:www.archives.pref.okinawa.jp
  3. 1979年4月1日昭和54年中頭郡西原村が町制を施行し、西原町となった。種類:町制施行 出典:www.pref.okinawa.jp

名前の歩み

帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。

西原村→西原町1908〜今

参考にした資料