今の与那原町
沖縄本島南部の東海岸にあり、中城湾に面する町です。西側には運玉森がそびえ、海沿いには古くから商業地が広がります。山原船や軽便鉄道が物資を運んだ歴史を持ち、復元された与那原駅舎が往時を伝えています。東浜には埋立地の新しい市街地があり、古くからの集落と海辺のまちが隣り合います。与那原大綱曳は、豊年や人々の健康を願って受け継がれてきた行事です。
今の与那原町の区域の人口は、2020年の国勢調査で19,695人です。今の区域で数えた1980年の12,752人とくらべると54.4%ふえ、人口はいまもふえ続けています。65歳以上の人の割合は20.2%です。
主な産業:商業が発達し、与那原そばや赤瓦、海産物などの生産も行われています。
特産品・名産
- 与那原そば町の名を冠する沖縄そば
- よなばるひじき町の特産として知られる海藻
- 沖縄赤瓦沖縄の屋根を彩る伝統の瓦
見どころ・祭り
- 与那原親川町の歴史にかかわる拝所と井泉
- 運玉森西原町との境にそびえる山
- 与那原大綱曳まつり町に受け継がれてきた大綱曳
- 県営軽便鉄道与那原駅舎かつての鉄道駅舎を復元
木リュウキュウコクタン花ハイビスカス与那原町の木・花
与那原町のなりたち
与那原町(よなばるちょう)は、沖縄県南部地方の町です。
- 1920年の郡
- 島尻郡
「与那原町」という名前
「与那原」は琉球語で「ユナバル」と呼ばれます。「ヨナ」は海岸のサンゴ砂を表す「ユニ」「ヨナ」「ユナ」に、「ハル」は開墾地を意味する言葉に由来します。海辺の土地に結びついた地名で、王府時代には大里間切の村名として使われていました。大里村から分かれて町になった際にも、この名が引き継がれました。
まちの成り立ち
与那原は、王府時代には大里間切に属していました。1908年(明治41年)4月1日の町村制施行後は、島尻郡大里村の一部となります。浜には山原船が出入りし、沖縄本島東部の海上交通と物資の集散を支えました。1914年(大正3年)には那覇と与那原を結ぶ県営軽便鉄道が開通し、海と陸の輸送をつなぐ商業地として発展しました。
大里村から分かれて町をつくる動きは、1928年(昭和3年)から村会で議題となりました。1937年(昭和12年)には村会で可決され、1944年の実施を予定しましたが、戦争によって延期されます。戦後の1946年12月23日、大里村は与那原・与原・大見武による町の設置を沖縄民政府に求めました。1947年8月4日には上与那原が、1948年には板良敷・当添が参加を表明します。こうした経緯を経て、1949年(昭和24年)4月1日、大里村の一部が分かれ、与那原町が発足しました。
戦後は米国の施政下で復興を進め、1972年5月15日に沖縄の日本復帰を迎えました。1996年からは隣の西原町とともに沿岸の埋立事業が進み、マリンタウンの新たな市街地が生まれました。
年表
- 1908年4月1日明治41年町村制の施行により、大里間切が島尻郡大里村となった。種類:町村制 出典:www.pref.okinawa.jp
- 1914年那覇と与那原を結ぶ沖縄県営軽便鉄道が開通した。種類:その他 出典:www.town.yonabaru.okinawa.jp
- 1949年4月1日昭和24年島尻郡大里村の一部が分かれ、与那原町が発足した。種類:分割 出典:www.pref.okinawa.jp
- 1972年5月15日昭和47年沖縄が日本に復帰し、与那原町も日本の施政下に戻った。種類:その他 出典:www.archives.pref.okinawa.jp
名前の歩み
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。
参考にした資料
- www.town.yonabaru.okinawa.jp/uploaded/attachment/482.pdf
- www.town.yonabaru.okinawa.jp/uploaded/attachment/5945.pdf
- www.town.yonabaru.okinawa.jp/soshiki/2/67.html
- www.pref.okinawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/039/562/r08_2-6.pdf
- www.archives.pref.okinawa.jp/event_information/past_exhibitions/934
- www.pref.okinawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/039/562/r08_2-3.pdf