今の宜野湾市
沖縄本島中南部の西海岸にあり、東シナ海に面する市です。海岸沿いの平坦な土地から内陸の台地へと続き、宇地泊川や普天間川が流れます。中央部に米軍基地があり、市街地はその周囲の幹線道路沿いに広がっています。西海岸には沖縄コンベンションセンターやトロピカルビーチが集まり、交流と観光の拠点になっています。大山には田いもの生産地が残り、住宅地と農地が隣り合います。
今の宜野湾市の区域の人口は、2020年の国勢調査で100,125人です。今の区域で数えた1980年の62,549人とくらべると60.1%ふえ、人口はいまもふえ続けています。65歳以上の人の割合は19.7%です。
主な産業:商業や観光・コンベンション関連の活動が集まり、大山では田いも栽培が続いています。
特産品・名産
- 大山田いも大山の水田で育てられる田いも
- 琉球紅型市の特産として挙げられる染め物
- ステンドガラス工芸品色ガラスを組み合わせる工芸品
見どころ・祭り
- 普天満宮洞穴を伴う普天間の神社
- 嘉数高台沖縄戦の歴史を伝える高台
- トロピカルビーチ西海岸に整備された海辺
- 森の川はごろも伝説を伝える湧き水
木リュウキュウコクタン花キク宜野湾市の木・花
宜野湾市のなりたち
宜野湾市(ぎのわんし)は、沖縄県中部地方の市です。1920年(大正9年)の時点ですでに宜野湾村として今とほぼ同じ区域があり、それから一度も合併をしていない、県内でもめずらしい市です。
- 1920年の郡
- 中頭郡
「宜野湾市」という名前
「宜野湾」は、王府時代の宜野湾間切から続く名前です。1671年に浦添・中城・北谷の各間切から分かれた村々など、14の村をまとめて宜野湾間切が置かれました。その中には宜野湾という名の村も含まれていました。1908年に宜野湾村となり、1962年の市制施行後も、この名前が受け継がれています。
まちの成り立ち
宜野湾の母体となった宜野湾間切は、1671年に14の村で発足しました。1908年(明治41年)4月1日には島嶼町村制が施行され、中頭郡宜野湾村となります。県立の農事試験場や官公署が置かれ、本島中部の政治や教育、経済の拠点となっていきました。
1945年(昭和20年)の沖縄戦では村が大きな被害を受けました。焼失を免れた野嵩には民間人の収容所が設けられ、宜野湾の住民に加え、那覇や島尻などの人々も集められました。1946年(昭和21年)4月4日、市町村制の復活に伴って野嵩区から宜野湾村へと行政が改められ、役場の仕事が始まりました。各集落でも区長を中心に家屋や学校を建て直していきました。
一方、村の主要な土地は米軍基地として接収され、帰る場所を失った住民もいました。戦後は普天間を中心に都市化が進み、1962年(昭和37年)7月1日に村から市へ移行して宜野湾市となりました。1972年5月15日に沖縄が日本へ復帰した後も、市街地は中央の基地を取り囲む道路に沿って広がりました。1987年には沖縄コンベンションセンターが立地し、西海岸は人や文化の交流を担う地域へと変わっていきました。
年表
- 1908年4月1日明治41年島嶼町村制の施行により、宜野湾間切が中頭郡宜野湾村となった。種類:町村制 出典:www.pref.okinawa.jp
- 1946年4月4日昭和21年市町村制の復活に伴い、野嵩区から宜野湾村へと行政が改められた。種類:その他 出典:www.city.ginowan.lg.jp
- 1962年7月1日昭和37年中頭郡宜野湾村が市制を施行し、宜野湾市となった。種類:市制施行 出典:www.pref.okinawa.jp
- 1972年5月15日昭和47年沖縄が日本に復帰し、宜野湾市も日本の施政下に戻った。種類:その他 出典:www.archives.pref.okinawa.jp
名前の歩み
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。
参考にした資料
- www.city.ginowan.lg.jp/shisei/shokai/2/3427.html
- www.city.ginowan.lg.jp/material/files/group/61/joshou.pdf
- www.city.ginowan.lg.jp/material/files/group/61/5shou.pdf
- www.pref.okinawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/039/562/r08_2-1.pdf
- www.archives.pref.okinawa.jp/event_information/past_exhibitions/934