今の立科町
長野県の中部、北佐久郡にある南北に細長い町です。北部の里では米づくりを中心に、りんごや高原野菜、牛や豚の畜産が盛んです。南部の高原には蓼科山の北西に女神湖や白樺湖、蓼科牧場があり、リゾート地として人が集まります。中山道の芦田宿と松並木も残ります。雨が少なく晴れの日が多い町です。1955年に芦田村・横鳥村・三都和村が合併して生まれた町です。
今の立科町の区域の人口は、2020年の国勢調査で6,612人です。今の区域で数えた1980年の8,347人とくらべると20.8%減り、人口は1995年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は37.0%です。
主な産業:米・りんご・高原野菜・畜産の農業と、高原のリゾート観光
特産品・名産
- りんご北部の里で作られる
- 米北部の里の稲作
- 蓼科牛町で育つ肉用牛
見どころ・祭り
- 女神湖南部の高原の湖
- 白樺湖茅野市との境の高原の湖
- 蓼科牧場蓼科山のふもとの牧場
- 芦田宿と松並木中山道の宿場と並木
- 津金寺町内の古い寺
木シラカバ花スズラン鳥キジ立科町の木・花・鳥
立科町のなりたち
立科町(たてしなまち)は、長野県東信地方の町です。今の町の区域には、1920年(大正9年)の時点で、4の町村がありました。三都和村・横鳥村・芦田村・本牧村です。これらの町村が、1回の合併や編入を経て、今の立科町になりました。
今の名前「立科町」は、1920年にあったどの町村の名前とも違い、合併のときに新しくつけられた名前です。もとの4の町村の名前は、自治体の名前としてはすべて消えました。
1920年の時点で、この区域の町村は北佐久郡に属していました。
「立科町」という名前
立科町は、蓼科山のふもとの芦田村・横鳥村・三都和村が合併してできた町です。3つの村は蓼科の名を冠した組合や学校を一緒につくってきたため、新しい村の名前は初め「蓼科村」とする準備が進められていました。しかし「蓼」の字が当用漢字になかったことなどから、「立科村」と決まりました。
「蓼科山は古くは立科山と表記されていたことから「立科村」に異議なく決定されました。」── 立科町「立科町の概要」
まちの成り立ち
1889年(明治22年)4月1日の町村制の施行で、今の立科町の地域には、中山道の芦田宿があった芦田村、牛鹿村など3か村がまとまった横鳥村、藤沢村など3か村がまとまった三都和村が生まれました。
1955年(昭和30年)4月1日、この3か村が合併して立科村が発足しました。翌1956年(昭和31年)7月1日には、村の南の芦田と池の平の一部が諏訪郡茅野町に移りました。1958年(昭和33年)10月1日に町制を施行して立科町となり、1960年(昭和35年)4月15日には、中山道の茂田井宿があった望月町茂田井の一部(仲町・田町・西町・古町)を編入しました。
町は南北に細長く、標高の高い南部の高原と、人の多く住む北部の里に分かれています。北部では米づくりを中心に、りんごや高原野菜、牛や豚の畜産が盛んです。南部の高原には、蓼科山の北西に女神湖や白樺湖、蓼科牧場が広がり、リゾート地として多くの人が訪れます。町は県内でも雨の少ない土地で、晴れの日が多いことでも知られています。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、北佐久郡に芦田村が単独で、牛鹿村・宇山村・山部村の区域で横鳥村が、藤沢村・桐原村・塩沢村の区域で三都和村が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1955年4月1日昭和30年芦田村・横鳥村・三都和村が合併し、立科村が発足した。種類:新設合併 出典:Wikipedia
- 1956年7月1日昭和31年立科村の一部(芦田および池の平の一部)が諏訪郡茅野町に編入された。種類:一部編入 出典:Wikipedia
- 1958年10月1日昭和33年立科村が町制を施行し、立科町となった。種類:町制施行 出典:Wikipedia
- 1960年4月15日昭和35年望月町の一部(茂田井のうち仲町・田町・西町・古町)が立科町に編入された。種類:一部編入 出典:Wikipedia
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。