今の津幡町
石川県の河北郡にある町で、県内の町で最も人口が多く、金沢市への通勤者が多いベッドタウンです。富山県との境に倶利伽羅峠があり、古くから北陸道が能登へ分かれる宿場町として栄えました。山には三国山があり、津幡川と大海川が流れ、河北潟に近い低地には田んぼが広がります。町の中には石川県森林公園もあります。春には倶利伽羅峠で八重桜のまつりが開かれます。
今の津幡町の区域の人口は、2020年の国勢調査で36,957人です。今の区域で数えた1980年の23,682人とくらべると56.1%ふえ、人口は2015年まではふえ、その後は少し減っています。65歳以上の人の割合は24.6%です。
主な産業:金沢市への通勤者が多いベッドタウンで、河北潟のまわりでは農業も営まれます。
特産品・名産
- まこも1998年から山あいの地域で栽培が始まった野菜
見どころ・祭り
- 倶利伽羅峠源平の合戦の舞台とされる峠
- 津幡ふるさと歴史館津幡城跡に2016年に開館
- 石川県森林公園町の中ほどにある県の公園
- ひまわり村夏にヒマワリが咲く名所
木マツ花ツツジ鳥ハクチョウ津幡町の木・花・鳥
津幡町のなりたち
津幡町(つばたまち)は、石川県加賀地方の町です。今の町の区域には、1920年(大正9年)の時点で、7の町村がありました。英田村・笠谷村・中条村・井上村・河合谷村・倶利伽羅村・津幡町です。これらの町村が、4回の合併や編入を経て、今の津幡町になりました。
今の名前「津幡町」は、1920年にあった津幡町の名前を受け継いでいます。ほかの6の町村の名前は、自治体の名前としては消えましたが、地区の名前や学校、駅などに残っていることが少なくありません。
面積は、1920年の津幡町が約4km²だったのに対し、今の津幡町は約111km²と、およそ25.3倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は河北郡・羽咋郡に属していました。
消えた町村の名前は、駅の名前に見ることができます。旧倶利伽羅村の区域には倶利伽羅駅(あいの風とやま鉄道線)があります。
「津幡町」という名前
「津幡」という名前は、このあたりが津幡川と河北潟を行き来する舟の「津」(舟が泊まる所)の「端」にあたることに由来するとされます。津幡は古くから北陸道が能登へ分かれる所で、宿場町として栄えました。東の倶利伽羅峠は、木曽義仲が「火牛の計」で平家を破ったという言い伝えが残る土地です。
まちの成り立ち
1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行で、河北郡に津幡町とまわりの村々が生まれました。北の河合谷村は、となりの羽咋郡に属していました。1907年(明治40年)8月10日には村の統合が行われ、東英村と種谷村が英田村に、笠井村と笠野村が笠谷村に、倶利伽羅村と萩坂村が新しい倶利伽羅村になりました。
昭和の大合併では、1954年(昭和29年)3月31日に津幡町・中条村・笠谷村・井上村・英田村が合併し、新しい津幡町が発足しました。同じ年の5月16日には羽咋郡の河合谷村を編入し、1957年(昭和32年)2月1日には倶利伽羅村を編入しています。旧河合谷村の牛首・瓜生・上河合・下河合・上大田は、昔の能登国にあたる地域です。こうして、加賀と能登にまたがる今の町の形ができました。
それから町の区域は変わっていません。金沢市に近く、県内の町で最も人口の多い町です。町の中ほどには石川県森林公園があり、富山県との境の倶利伽羅峠では、春に八重桜のまつりが開かれます。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、河北郡に津幡町と中条村・井上村・倶利伽羅村・萩坂村・笠井村・笠野村・東英村・種谷村が、羽咋郡に河合谷村が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1907年8月10日明治40年河北郡で村の統合が行われ、東英村・種谷村が英田村に、笠井村・笠野村が笠谷村に、倶利伽羅村・萩坂村が倶利伽羅村になった。種類:新設合併 出典:Wikipedia
- 1954年3月31日昭和29年河北郡の津幡町・中条村・笠谷村・井上村・英田村が合併し、新たに津幡町が発足した。種類:新設合併 出典:Wikipedia
- 1954年5月16日昭和29年羽咋郡河合谷村が津幡町に編入された。種類:編入 出典:Wikipedia
- 1957年2月1日昭和32年河北郡倶利伽羅村が津幡町に編入された。種類:編入 出典:Wikipedia
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。