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内灘町うちなだまち

内灘町は、1920年からほぼ同じ区域のまま続いている町です。

1町村から

今の内灘町

石川県の中西部にある河北郡の町です。北西は日本海に面し、町域のほとんどが内灘砂丘です。南に県庁所在地の金沢市があり、金沢都市圏に含まれます。東には河北潟があり、海岸には防風林として松やニセアカシアが植えられています。砂丘の畑では野菜づくりが盛んで、干拓地では酪農も行われます。凧の祭典やビーチスポーツなど、海辺を生かした催しがあります。

今の内灘町の区域の人口は、2020年の国勢調査で26,574人です。今の区域で数えた1980年の20,814人とくらべると27.7%ふえ、人口は2015年まではふえ、その後は少し減っています。65歳以上の人の割合は27.3%です。

26,574人人口(2020年)
+27.7%1980年からの増減
20.33km²面積(国土地理院)
1,307人/km²人口密度
27.3%65歳以上の割合
26,9871980199020052020
15歳未満 12.7%15〜64歳 60.0%65歳以上 27.3%
今の区域の人口(国勢調査)。各回の市町村の人口を、今の区域にまとめて集計(境界の一部の移動は含まない)。面積は国土地理院「全国都道府県市区町村別面積調」

主な産業:砂丘地での野菜づくりと、干拓地での酪農が盛んです。

特産品・名産

  • 砂丘地の野菜砂丘の畑でつくられる野菜
  • 牛乳干拓地の酪農。県内の出荷量の約3割

見どころ・祭り

  • 世界の凧の祭典5月に内灘海岸で開かれる凧揚げの祭り
  • 道の駅内灘サンセットパーク海沿いの道の駅
  • サンセットブリッジ内灘2009年に恋人の聖地に認定された橋
  • 内灘海水浴場日本海に面した海水浴場

木クロマツ花ハマナス鳥チュウヒ内灘町の木・花・鳥

内灘町のなりたち

内灘町(うちなだまち)は、石川県加賀地方の町です。1920年(大正9年)の時点ですでに内灘村として今とほぼ同じ区域があり、それから一度も合併をしていない、県内でもめずらしい町です。

1920年の時点で、この区域の町村は河北郡に属していました。

11920年の町村の数
0回合併・編入の回数
20km²今の面積

「内灘町」という名前

「内灘」という名前の由来は、はっきりしていません。町は日本海と河北潟にはさまれた砂丘の上にあります。1889年(明治22年)の町村制で、向粟崎・大根布・宮坂・黒津船地内・西荒屋・室の6つの村が一つになったとき、新しい村の名前として「内灘」が付けられました。この名前は1962年に町になってからも受け継がれています。

まちの成り立ち

1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行で、河北郡の向粟崎・大根布・宮坂・黒津船地内・西荒屋・室の6村が一つになり、内灘村が生まれました。内灘砂丘は、加賀地方で初めて石器が見つかった土地として知られます。

大正の末から1941年(昭和16年)ごろまでは、「北陸の宝塚」とも呼ばれた粟ヶ崎遊園地が人を集めました。戦後の1952年(昭和27年)からは砂丘の大部分がアメリカ軍の砲弾の試射場とされ、これに反対する「内灘闘争」が起こりました。試射場は1957年にアメリカ軍が引き揚げて終わりました。1970年(昭和45年)には火力発電所の建設計画が持ち上がり、ふたたび反対運動が起こっています。

内灘村は昭和の大合併でもどことも合併せず、1962年(昭和37年)1月1日に町制を施行して内灘町となりました。金沢市に近いことから住宅団地が次々につくられ、ベッドタウンとして人口が大きく増えました。平成の大合併でも合併はしていません。町は河北潟放水路を境に、南部と北部の地域に分かれています。

年表

  1. 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、河北郡の向粟崎村・大根布村・宮坂村・黒津船地内・西荒屋村・室村の区域から内灘村が発足した。種類:町村制 出典:www.town.uchinada.lg.jp
  2. 1962年1月1日昭和37年河北郡内灘村が町制を施行し、内灘町となった。種類:町制施行 出典:Wikipedia

名前の歩み

帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。

内灘村→内灘町1889〜今

参考にした資料