運命の分かれ目
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1180年10月22歳
黄瀬川で兄と対面
平治の乱で父の義朝を失い、幼くして鞍馬寺に預けられた。のちに奥州平泉の藤原秀衡のもとで育った。兄の頼朝が挙兵すると、平泉から駆けつけ、駿河の黄瀬川の陣で頼朝と涙の対面をした。
1184年1月、兄の範頼とともに京の木曾義仲を攻めて、宇治川で破った。
頼朝の許しを得ずに、後白河法皇から検非違使に任じられ、兄の怒りを買った。
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1185年2月27歳
屋島の戦い
嵐の夜に、ふつうなら3日かかる海をわずかな船で渡って四国に上陸し、讃岐の屋島の平家を背後から攻めた。那須与一が扇の的を射たのは、この戦いの夕方のことと『平家物語』は伝える。
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1185年3月27歳
壇ノ浦の戦い
長門の壇ノ浦で、平家の水軍との最後の決戦にのぞんだ。潮の流れが変わると源氏が優勢になり、平家は滅んだ。安徳天皇は祖母の二位尼に抱かれて海に沈んだ。
鎌倉に向かったが、頼朝に会うことを許されず、腰越で弁明の手紙(腰越状)を書いた。10月、後白河法皇から頼朝追討の命令を得て兵を挙げたが、兵は集まらず、都を落ちた。
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1189年4月31歳
衣川で自害
各地を逃げ回ったのち、再び平泉の藤原秀衡を頼った。しかし秀衡が亡くなると、子の泰衡は頼朝の圧力に屈し、衣川の館の義経を攻めた。義経は妻子とともに自害した。31歳だった。その年のうちに、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼした。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
居所の移り変わり
- 1
鞍馬寺
1169年ごろ〜1174年(11〜16歳)幼いころ預けられた京の北の寺。
- 2
平泉
1174年ごろ〜1180年(16〜22歳)奥州藤原氏のもとで育った。
- 3
京
1184年〜1185年(26〜27歳)平家を追い、検非違使として京を守った。
- 4
平泉(衣川)
1187年〜1189年(29〜31歳)頼朝に追われ、再び秀衡を頼った。ここで亡くなった。
地図は1184年の勢力図に、居所の位置を重ねたものです。濃い色が源氏の勢力です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
諸説
一ノ谷で、鵯越の崖を馬で駆け下りた
「鵯越の逆落とし」は『平家物語』の名場面。鵯越と一ノ谷は離れていて、実際に崖を下ったのは別の武将だったとする説や、場所そのものに議論がある。
諸説
壇ノ浦で、船から船へ8艘を飛び移った
「八艘飛び」は『平家物語』に見える場面で、物語の脚色が大きいとみられる。
後世の創作
五条大橋で弁慶と出会った
牛若丸と弁慶の出会いは、室町時代の『義経記』や御伽草子などでつくられた話。弁慶の「立ち往生」も同じ。
後世の創作
衣川で死なず、大陸に渡ってチンギス・カンになった
江戸時代の北へ逃げた伝説が、明治時代にふくらんでできた説。根拠はない。
諸説
兄に許しを求めた「腰越状」
『吾妻鏡』に全文が載るが、文章の形などから、後の時代に整えられたものとする見方がある。
数字で見る義経
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
家族
主役のバトン
義経が死んだあと
源氏の勢力は、義経が死んだ時点で地図の上の63地域。3年後には68地域。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
義経が生まれたころの世界
- 1154年ヨーロッパイングランドでプランタジネット朝が始まる
- 1163年ヨーロッパパリのノートルダム大聖堂の建設が始まる
- 1169年西アジアサラディンがエジプトの実権を握る
義経が出てくる合戦絵巻
略年譜(源平合戦 勢力図の出来事から)
参考
- 元木泰雄『源義経』(吉川弘文館)
- 高橋富雄『義経伝説』(中公新書)