源

源平合戦 勢力図の人物

源義経(牛若)みなもとの よしつね(うしわか)

1159年〜1189年(数え31歳) / 頼朝の弟・名将 / 源氏(河内源氏・鎌倉)

一ノ谷・屋島・壇ノ浦と、わずか1年あまりで平家を滅ぼした天才。兄に追われ、31歳で奥州に散った。

一ノ谷・屋島・壇ノ浦で平家を破ったが、兄に追われて平泉で死んだ。「判官びいき」の言葉を生んだ。

源氏の勢力

運命の分かれ目

  1. 1180年10月22歳

    黄瀬川で兄と対面

    平治の乱で父の義朝を失い、幼くして鞍馬寺に預けられた。のちに奥州平泉の藤原秀衡のもとで育った。兄の頼朝が挙兵すると、平泉から駆けつけ、駿河の黄瀬川の陣で頼朝と涙の対面をした。

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  2. 1184年1月、兄の範頼とともに京の木曾義仲を攻めて、宇治川で破った。

  3. 1184年2月26歳

    一ノ谷の戦い

    摂津の一ノ谷に陣を敷いた平家を、範頼が正面から攻め、義経はわずかな兵で山の側から奇襲して、平家を海へ追い落とした。

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  4. 頼朝の許しを得ずに、後白河法皇から検非違使に任じられ、兄の怒りを買った。

  5. 1185年2月27歳

    屋島の戦い

    嵐の夜に、ふつうなら3日かかる海をわずかな船で渡って四国に上陸し、讃岐の屋島の平家を背後から攻めた。那須与一が扇の的を射たのは、この戦いの夕方のことと『平家物語』は伝える。

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  6. 1185年3月27歳

    壇ノ浦の戦い

    長門の壇ノ浦で、平家の水軍との最後の決戦にのぞんだ。潮の流れが変わると源氏が優勢になり、平家は滅んだ。安徳天皇は祖母の二位尼に抱かれて海に沈んだ。

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  7. 鎌倉に向かったが、頼朝に会うことを許されず、腰越で弁明の手紙(腰越状)を書いた。10月、後白河法皇から頼朝追討の命令を得て兵を挙げたが、兵は集まらず、都を落ちた。

  8. 1189年4月31歳

    衣川で自害

    各地を逃げ回ったのち、再び平泉の藤原秀衡を頼った。しかし秀衡が亡くなると、子の泰衡は頼朝の圧力に屈し、衣川の館の義経を攻めた。義経は妻子とともに自害した。31歳だった。その年のうちに、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼした。

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年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。

居所の移り変わり

  1. 1

    鞍馬寺

    1169年ごろ〜1174年(11〜16歳)

    幼いころ預けられた京の北の寺。

  2. 2

    平泉

    1174年ごろ〜1180年(16〜22歳)

    奥州藤原氏のもとで育った。

  3. 3

    京

    1184年〜1185年(26〜27歳)

    平家を追い、検非違使として京を守った。

  4. 4

    平泉(衣川)

    1187年〜1189年(29〜31歳)

    頼朝に追われ、再び秀衡を頼った。ここで亡くなった。

地図は1184年の勢力図に、居所の位置を重ねたものです。濃い色が源氏の勢力です。

通説と実像

よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。

諸説

一ノ谷で、鵯越の崖を馬で駆け下りた

「鵯越の逆落とし」は『平家物語』の名場面。鵯越と一ノ谷は離れていて、実際に崖を下ったのは別の武将だったとする説や、場所そのものに議論がある。

諸説

壇ノ浦で、船から船へ8艘を飛び移った

「八艘飛び」は『平家物語』に見える場面で、物語の脚色が大きいとみられる。

後世の創作

五条大橋で弁慶と出会った

牛若丸と弁慶の出会いは、室町時代の『義経記』や御伽草子などでつくられた話。弁慶の「立ち往生」も同じ。

後世の創作

衣川で死なず、大陸に渡ってチンギス・カンになった

江戸時代の北へ逃げた伝説が、明治時代にふくらんでできた説。根拠はない。

諸説

兄に許しを求めた「腰越状」

『吾妻鏡』に全文が載るが、文章の形などから、後の時代に整えられたものとする見方がある。

数字で見る義経

勢力が最も広かった年1185年63地域・約21万km²(27歳)
そのときの広さ72%この地図の範囲(北海道・沖縄をのぞく日本)のうち。その年の勢力の中で1位
地図に記された戦い4回源平合戦 勢力図の出来事のうち、義経の名前が出てくる戦い
居所を移した回数3回鞍馬寺 → 平泉 → 京 → 平泉(衣川)

広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。

つながり

主役のバトン

源義経(牛若)1159年〜1189年(数え31歳)

義経が死んだあと

1189年(死んだ時点)
1192年(3年後)
63死
681年後
682年後
683年後

源氏の勢力は、義経が死んだ時点で地図の上の63地域。3年後には68地域。

死んだ年の勢力図を開く

地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。

同じ時代、世界では

サラディン西アジア・1137年〜1193年・義経より22歳年上十字軍からエルサレムを取り返したアイユーブ朝の祖。
リチャード1世(獅子心王)ヨーロッパ・1157年〜1199年・義経より2歳年上第3回十字軍でサラディンと戦ったイングランド王。
高宗(趙構)・1107年〜1187年・義経より52歳年上徽宗の九男。南へ逃れて宋を再建し、金と和議を結んだ。
チンギス・カンモンゴル・1162年〜1227年・義経より3歳年下モンゴル高原を統一し、大帝国を築いた。生年は諸説ある。

義経が生まれたころの世界

義経が出てくる合戦絵巻

略年譜(源平合戦 勢力図の出来事から)

参考