12月初め
一ノ谷の城郭
屋島から福原に戻った平家は、東の生田の森と西の一ノ谷に木戸を築いた。北は険しい山、南は海。守りは固く、平家は数万の兵で京を取り戻す機会をうかがっていた。
合戦絵巻 ─ 源平合戦 勢力図
2月初め
1184年(寿永3年)2月7日、摂津国の福原(いまの神戸市)一帯に陣を構えた平家を、源範頼・義経の軍が攻めた。東の生田の森と西の一ノ谷で激しい戦いが続くなか、義経の小部隊が背後の山から攻め下り(鵯越の逆落とし)、平家は総崩れとなって海へ逃れた。平家は多くの一門を失い、屋島へ退いた。
上の観戦プレイヤーでは、源氏(範頼・義経)約5.7万と平家(宗盛・知盛)—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
1183年、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に大敗した平家は、安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、西国へ逃れた。都に入った義仲は、後白河法皇と対立し、翌1184年1月、源頼朝が送った弟の範頼・義経の軍に攻められて近江の粟津で討たれた。
その間に平家は、讃岐の屋島を拠点に勢力を立て直し、清盛がかつて都を置いた福原まで戻ってきた。東は生田の森、西は一ノ谷に木戸を構え、北は六甲の山、南は海という守りやすい地形で、京を取り戻す機会をうかがった。
後白河法皇は平家追討を命じ、範頼が大手(正面)の軍を率いて東の生田の森へ、義経が搦手(裏手)の軍を率いて丹波路を回り、西へ向かった。
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12月初め
屋島から福原に戻った平家は、東の生田の森と西の一ノ谷に木戸を築いた。北は険しい山、南は海。守りは固く、平家は数万の兵で京を取り戻す機会をうかがっていた。
22月7日 朝
朝6時ごろ、範頼の本隊が東の生田の森を、義経から預かった兵を率いる土肥実平が西の一ノ谷の木戸を攻めた。熊谷直実らは先陣を争って一ノ谷に駆けこんだ。平家は木戸を固く守った。
32月7日 朝
義経は70騎ほどを連れて山に入り、平家の陣の真上の崖に出た。鹿が通れるなら馬も通れると、崖を馬で駆け下りたという。義経の家臣の畠山重忠は、馬を背負って下りたとも伝えられる。
42月7日 昼
背後に現れた源氏に平家は大混乱となり、あちこちで火の手が上がった。兵たちは我先に海の船へ逃げた。
52月7日 午後
海の船へ馬を泳がせていた若武者を、熊谷直実が呼び戻して組み伏せた。首を取ろうとすると、わが子と同じ16歳ほどの若者だった。直実は迷ったが、味方が迫るなかで泣く泣く首を取った。平敦盛で、腰には笛が差してあった。直実はのちに出家したと伝えられる。
6結果
平家は忠度・通盛・敦盛ら一門の多くを失い、重衡は捕らえられた。宗盛らは安徳天皇とともに屋島へ逃れた。
平家の陣は、海と山に守られていることを頼みにしていた。そこへ、通れないと思われていた山の側から源氏が現れたことで、陣の中は大混乱となった。
範頼の大軍が生田の森を、土肥実平らが一ノ谷の木戸を攻めて、平家の主力を東西の入り口に引きつけていた。そのため、山手からの攻撃に備える余裕がなかった。
陣が破れると、兵たちは沖の船へ向かって我先に逃げた。船に乗りきれず、あるいは乗ろうとして討たれる者が多く、一門の武将も次々に命を落とした。
頼朝の異母弟。この戦いで名を上げ、翌年には屋島と壇ノ浦で平家を滅ぼした。しかしその後、頼朝と対立して追われ、1189年、奥州の衣川で自害した。
頼朝の異母弟で、大手の総大将。のちに九州に渡って平家の退路を断った。1193年、頼朝への謀反の疑いをかけられ、伊豆に流された。
清盛の弟・経盛の子で、16歳(17歳とも)。笛の名手で、熊谷直実に討たれた話は『平家物語』の中でも特に名高い。
武蔵の武士。敦盛を討ったことに世の無常を感じたともいわれ、のちに法然の弟子となって出家し、蓮生と名のった。
清盛の末弟で、すぐれた歌人。一ノ谷で討たれた。都落ちの前に、師の藤原俊成に自作の歌を託し、そのうちの一首は『千載和歌集』に「詠み人知らず」として採られた。
清盛の五男。この戦いで捕らえられ、鎌倉へ送られた。1180年に東大寺・興福寺を焼いた責任を問われ、1185年、南都の僧兵の求めで奈良で斬られた。
平家は、忠度・敦盛・通盛・経正ら一門の多くを失い、重衡は捕らえられた。宗盛は安徳天皇とともに屋島に戻ったが、陸の拠点を失い、瀬戸内の海を頼りに戦うほかなくなった。
源氏はその後、しばらく船が集まらずに攻めあぐねた。翌1185年2月、義経はわずかな兵で嵐の中を四国へ渡って屋島を攻め、平家は長門の彦島へ逃れる。そして3月、壇ノ浦で最後の決戦を迎えることになる。
義経が崖を馬で駆け下りた場所は、名前のとおりの「鵯越」なのか、一ノ谷の裏手の鉄拐山のあたりなのか、はっきりしない。また、同時代の貴族の日記『玉葉』には、山の手から攻めたのは多田行綱だとも読める記述があり、逆落としの主役が義経だったのかを疑う説もある。
戦いの直前、後白河法皇が平家に和平の使者を送り、戦いを止めるよう伝えていたという記録がある。平家はそれを信じて油断していたところを攻められたとも考えられ、その場合、平家側から見れば不意打ちだったことになる。
敦盛の最期や、畠山重忠が馬を背負って崖を下りた話などは、『平家物語』や後の物語で広まった場面である。どこまでが事実かはわからないが、戦いの記憶として長く語り継がれてきた。
| 1183年5月 | 倶利伽羅峠の戦い。木曽義仲が平家を破る |
|---|---|
| 1183年7月 | 平家が安徳天皇を奉じて都を落ちる |
| 1184年1月 | 木曽義仲が近江の粟津で討たれる |
| 1184年2月7日 | 一ノ谷の戦い |
| 1185年2月 | 屋島の戦い |
| 1185年3月24日 | 壇ノ浦の戦い。平家が滅ぶ |
| 1189年 | 源義経が奥州の衣川で自害 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 源範頼総大将 | 5万騎(号) | |
| 源義経 | 70騎 | |
| 土肥実平 | 7000騎 | |
| 熊谷直実 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 平宗盛・安徳天皇総大将 | 船の上 | |
| 平忠度 | 一ノ谷 | 討死・壊滅 |
| 平敦盛 | 討死・壊滅 | |
| 平知盛 | 生田の森 | 逃走 |
| 平重衡 | 降伏 |
決め手
義経は70騎ほどを連れて山に入り、平家の陣の真上の崖に出た。鹿が通れるなら馬も通れると、崖を馬で駆け下りたという。義経の家臣の畠山重忠は、馬を背負って下りたとも伝えられる。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「源平合戦 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『平家物語』、『吾妻鏡』、九条兼実『玉葉』