13月24日 朝
海峡の決戦
朝、平家の船団は彦島から東へ、源氏の船団は西へ進み、壇ノ浦で向かい合った。九州の岸には範頼の軍が陣を敷き、平家の逃げ道をふさいでいた。知盛は「今日を限りの戦いだ。命を惜しむな」と兵を励ました。
合戦絵巻 ─ 源平合戦 勢力図
3月24日 朝
1185年(元暦2年)3月24日、長門国の壇ノ浦(いまの山口県下関市、関門海峡)で、源義経の水軍が平家の船団を破った。敗れた平家の一門は次々に海に身を投げ、8歳の安徳天皇も祖母の二位尼に抱かれて入水した。栄華をきわめた平家は、ここに滅んだ。
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一ノ谷の戦いで敗れた平家は、讃岐の屋島を拠点に瀬戸内の海を押さえていた。源氏は船が足りず、しばらく攻めあぐねたが、1185年1月、源範頼の軍が九州に渡り、平家の背後を押さえた。
2月、義経はわずかな兵で嵐の中を四国へ渡り、屋島の平家を陸から急襲した。平家は海へ逃れ、長門の彦島に集まった。その間に義経は、伊予の河野氏や熊野の水軍を味方につけ、船を集めた。
陸の九州側は範頼の軍に押さえられ、平家は海の上で決戦に臨むほかなかった。総大将の宗盛のもとで、実際に戦いを指揮したのは清盛の四男・知盛である。
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13月24日 朝
朝、平家の船団は彦島から東へ、源氏の船団は西へ進み、壇ノ浦で向かい合った。九州の岸には範頼の軍が陣を敷き、平家の逃げ道をふさいでいた。知盛は「今日を限りの戦いだ。命を惜しむな」と兵を励ました。
23月24日 午前
平家は東へ流れる潮に乗って押し寄せ、源氏は押し戻された。知盛は安徳天皇を目立たない兵船に移し、大きな唐船に雑兵を乗せて、源氏の船が唐船を囲んだところを討つ策をとった。
33月24日 昼
阿波の田口成良が源氏に寝返り、知盛の策を義経に知らせた。源氏は唐船ではなく兵船を攻めた。また源氏は、平家の船の漕ぎ手や舵取りを射た。
43月24日 午後
午後、潮の流れが西向きに変わると、源氏が一気に攻勢に出た。平家の船は次々に乗っ取られた。教経は義経を追ったが、義経は船から船へ飛び移ってかわした(八艘飛び)。
53月24日 夕方
最期をさとった二位尼は、8歳の安徳天皇を抱き、「波の下にも都がございます」と言って海に身を投げた。知盛は「見るべきほどのことは見つ」と言って、鎧を2つ重ねて入水した。教経は源氏の武者2人を両脇に抱えて海に飛び込んだ。宗盛は泳いでいるところを捕らえられた。
6結果
平家は滅んだ。三種の神器のうち、神璽と神鏡は回収されたが、宝剣は海に沈み、ついに見つからなかった。建礼門院は助けられ、京の大原で一門の菩提を弔った。『平家物語』は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と語り始める。
平家に従っていた阿波の田口成良(重能)が戦いの途中で源氏に寝返り、平家の作戦を知らせたと『平家物語』は伝える。四国や九州の水軍が源氏に付き、平家の船は数でも劣るようになった。
源氏は、戦う武士ではなく、平家の船の漕ぎ手や舵取りを射た。船が動かなくなった平家は、源氏の船に乗り移られ、次々に乗っ取られた。
九州の岸は範頼の軍に押さえられ、東も西も源氏の船だった。敗れた平家には、上陸して逃げる道がなかった。
清盛の娘・徳子(建礼門院)の子で、3歳で即位した。8歳(数え年)でこの戦いに臨み、祖母の二位尼に抱かれて海に沈んだ。下関の赤間神宮に祀られている。
清盛の四男で、平家の実質的な総大将。最期に「見るべきほどのことは見つ」と言って入水したと『平家物語』は伝え、潔い武将の姿として後世の能や浄瑠璃にも描かれた。
清盛の妻。三種の神器のうち神璽と宝剣を身につけ、安徳天皇を抱いて海に身を投げた。
この戦いで平家を滅ぼした最大の功労者。しかし戦後、頼朝の許しなく朝廷から官位を受けたことなどから頼朝と対立し、追われる身となった。
平家随一の猛将。義経を討とうと追ったが、義経は船から船へ飛び移ってかわした(八艘飛び)。最後は源氏の武者二人を両脇に抱えて海に飛び込んだと伝わる。
清盛の三男で、平家の棟梁。海に飛び込んだが泳いでいるところを捕らえられ、鎌倉へ送られたのち、京へ戻される途中の近江で斬られた。
三種の神器のうち、神璽と神鏡は取り戻されたが、宝剣は海に沈み、いくら探しても見つからなかった。安徳天皇の母・建礼門院徳子は海から引き上げられ、京の大原の寂光院で、一門の人々の菩提を弔って暮らした。
平家を滅ぼした源氏では、頼朝と義経の対立が深まった。頼朝は1185年11月、義経を捕らえることを名目に、諸国に守護・地頭を置く許しを朝廷から得た。これが武家政権の土台となる。義経は奥州の藤原秀衡を頼ったが、1189年に衣川で自害し、頼朝は奥州藤原氏も滅ぼした。1192年、頼朝は征夷大将軍に任じられた。
午前は平家に有利な東向きの潮、午後は源氏に有利な西向きの潮に変わり、それが勝敗を分けたという説明はよく知られる。これは大正時代に歴史学者の黒板勝美が唱えた説で、その後の研究では、潮の流れの影響はそれほど大きくなかったのではないかという意見も出されている。
船の漕ぎ手を射ることは、当時の戦いの作法に反する行いだった、と語られることがある。しかし、そのような作法が実際にあったのかは、はっきりしない。
海に沈んだ宝剣(草薙剣)は、熱田神宮に祀られる本体ではなく、宮中に置かれた形代(分身)だったとする考え方が一般的である。
| 1184年2月 | 一ノ谷の戦い |
|---|---|
| 1185年1月 | 源範頼の軍が九州に渡る |
| 1185年2月 | 屋島の戦い。平家が彦島へ逃れる |
| 1185年3月24日 | 壇ノ浦の戦い。平家が滅ぶ |
| 1185年11月 | 頼朝が諸国に守護・地頭を置く許しを得る |
| 1189年 | 源義経が衣川で自害。頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす |
| 1192年 | 源頼朝が征夷大将軍となる |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 源義経総大将 | 840艘(号) | |
| 源氏の船 | ||
| 河野・熊野水軍 | ||
| 源範頼 | 陸から弓で |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 平知盛総大将 | 沈没 | |
| 安徳天皇・二位尼 | 沈没 | |
| 唐船(おとり) | 降伏 | |
| 平家の船 | 500艘(号) | 沈没 |
| 平教経 | 沈没 |
決め手
午後、潮の流れが西向きに変わると、源氏が一気に攻勢に出た。平家の船は次々に乗っ取られた。教経は義経を追ったが、義経は船から船へ飛び移ってかわした(八艘飛び)。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人(船は1艘)を表します。この合戦は「源平合戦 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『平家物語』、『吾妻鏡』