合戦絵巻 ─ 源平合戦 勢力図

保元の乱

1156年7月11日 / 京 白河北殿

7月10日

両陣営

1粒=約100人

1156年(保元元年)7月11日の夜明け、京都の白河北殿で、後白河天皇方の平清盛・源義朝らが、崇徳上皇方の御所を攻め落とした。天皇家・摂関家・源氏・平氏がそれぞれ親子や兄弟で敵味方に分かれた戦いで、わずか数時間で決着した。都の争いが武士の力で決まったこの戦いを、のちに慈円は「武者の世」の始まりと書いた。

上の観戦プレイヤーでは、後白河天皇方(平清盛・源義朝)約600と崇徳上皇方(源為義・為朝・平忠正)—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

後白河天皇方(平清盛・源義朝)
約600
崇徳上皇方(源為義・為朝・平忠正)
—
いつ
7月10日 → 結果

なぜ戦ったのか

平安時代の末、政治の実権は、位を退いた上皇(院)が握っていた(院政)。鳥羽法皇は、子の崇徳天皇を位から下ろし、別の子の近衛天皇、さらに後白河天皇を立てた。我が子に院政をしく道をふさがれた崇徳上皇は、不満をつのらせていた。

摂関家でも、関白の藤原忠通と、父の忠実に愛された弟の頼長が激しく争っていた。崇徳上皇と頼長、後白河天皇と忠通がそれぞれ結びつき、両陣営は兵を集めた。

1156年7月2日、鳥羽法皇が亡くなると、対立は一気に表に出た。武士たちも二つに割れ、源氏では源為義と子の為朝が上皇方に、為義の長男の義朝が天皇方についた。平氏でも、清盛は天皇方、その叔父の忠正は上皇方についた。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

17月10日

両陣営

鳥羽法皇の死から8日後、崇徳上皇は白河北殿に入り、藤原頼長とともに兵を集めた。後白河天皇方は高松殿に平清盛・源義朝らを集めた。親子・兄弟が敵味方に分かれた。義朝の父の為義と弟の為朝は上皇方、清盛の叔父の忠正も上皇方についた。

27月10日 夜

夜討ちの献策

上皇方では為朝が夜討ちを勧めたが、頼長は「夜討ちは卑しい。援軍を待つ」と退けた。一方、天皇方の義朝の夜討ちの献策は、信西に受け入れられた。

37月11日 未明

白河北殿へ

清盛・義朝・義康の兵600騎が、夜明け前に鴨川を越えて白河北殿に攻め寄せた。

47月11日 明け方

為朝の強弓

上皇方の為朝は、身長7尺の大男で、弓の弦を引く左腕が右より4寸長かったという。その矢は清盛方の武者の鎧を射抜き、清盛の兵は近づけなかった。

57月11日 朝

火攻め

義朝は白河北殿の西隣の屋敷に火を放つよう願い出て許された。火は風にあおられて御所に燃え移り、上皇方は総崩れとなった。

6結果

保元の乱の結果

崇徳上皇は讃岐に流され、頼長は流れ矢で死んだ。為義は子の義朝の手で、忠正は甥の清盛の手で斬られた。死刑は約350年ぶりのことだった。為朝は伊豆大島に流された。慈円は「武者の世」の始まりと記した。

勝敗を分けたもの

先手を取った夜討ち

上皇方でも為朝が夜討ちを勧めたが、頼長は退けて援軍を待った。天皇方では、後白河の側近の信西が義朝の夜討ちの案を受け入れた。先に動いたほうが勝った。

火攻め

為朝の強弓に攻めあぐねた天皇方は、白河北殿の隣の屋敷に火を放った。火は御所に燃え移り、守りを固めていた上皇方はたちまち総崩れになった。

兵の数

天皇方は清盛・義朝・源義康らが600騎ほどで攻め寄せ、さらに後詰めもいた。上皇方は兵を十分に集めきれないうちに攻められた。

主な武将とその後

後白河天皇後白河天皇方(平清盛・源義朝)

このとき30歳。乱のあと上皇となり、30年以上にわたって院政をしいた。源平の争乱を生き抜き、源頼朝に「日本一の大天狗」と呼ばれた。

崇徳上皇崇徳上皇方(源為義・為朝・平忠正)

敗れて讃岐に流され、二度と都に戻ることはなかった。のちに怨霊として恐れられ、さまざまな伝説が生まれた。

平清盛後白河天皇方(平清盛・源義朝)

39歳。乱の功で力を伸ばし、3年後の平治の乱で義朝を破って、武士として初めて太政大臣にのぼりつめる。

源義朝後白河天皇方(平清盛・源義朝)

源頼朝・義経の父。夜討ちと火攻めを進言して勝利に貢献したが、父の為義を自らの手で斬ることになった。恩賞に不満を持ち、平治の乱で清盛と戦って敗れた。

源為朝崇徳上皇方(源為義・為朝・平忠正)

為義の八男。弓の名手として知られ、『保元物語』では一矢で二人の武者を射抜いたとまで描かれる。伊豆大島に流された。

藤原頼長崇徳上皇方(源為義・為朝・平忠正)

学識にすぐれ「悪左府」と呼ばれた左大臣。戦いの中で流れ矢に当たり、奈良へ逃れたが亡くなった。

合戦のあと

乱のあと、崇徳上皇は讃岐に流され、源為義・平忠正らは斬られた。薬子の変(810年)のあとしばらく公の死刑は行われていなかったとされ、およそ350年ぶりの死刑だったといわれる。

政治の中心には、後白河天皇の側近の信西が座った。しかし信西や清盛と、恩賞に不満を持つ義朝との対立は深まり、3年後の1159年、平治の乱が起こる。ここで勝った清盛のもとで、平家の全盛期が訪れることになる。

諸説と論点

為朝の強弓

為朝の身の丈が7尺もあり、弓を引く左腕が右腕より4寸長かったという話や、一本の矢で鎧武者を射抜いた話は、軍記物の『保元物語』によるもので、誇張が多いと考えられている。

「350年ぶりの死刑」

保元の乱のあとの処刑が、平安時代に久しく途絶えていた死刑の復活だったことはよく語られるが、その間に死刑がまったくなかったかについては議論がある。いずれにせよ、都の人々に大きな衝撃を与えたことは確かである。

「武者の世」

天台座主の慈円は、歴史書『愚管抄』に、鳥羽院の死のあと「日本国の乱逆ということは起こりて後、武者の世になりにける」と書いた。保元の乱は、武士が政治を動かす時代の幕開けとみなされている。

関連年表

1129年鳥羽上皇の院政が始まる
1141年崇徳天皇が位を譲らされ、近衛天皇が即位
1155年近衛天皇が死去。後白河天皇が即位
1156年7月2日鳥羽法皇が死去
1156年7月11日保元の乱
1159年12月平治の乱。源義朝が敗れる
1167年平清盛が太政大臣となる

両軍の陣容

後白河天皇方(平清盛・源義朝)約600

部隊兵力その後
後白河天皇総大将
平清盛300騎
源義朝200騎
源義康100騎

崇徳上皇方(源為義・為朝・平忠正)—

部隊兵力その後
崇徳上皇・藤原頼長総大将降伏
源為朝強弓敗走
源為義討死・壊滅
平忠正討死・壊滅

決め手

火攻め

義朝は白河北殿の西隣の屋敷に火を放つよう願い出て許された。火は風にあおられて御所に燃え移り、上皇方は総崩れとなった。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「源平合戦 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:慈円『愚管抄』、『保元物語』