運命の分かれ目
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1156年7月39歳
保元の乱
鳥羽法皇の死後、崇徳上皇と後白河天皇が争うと、清盛は源義朝とともに後白河天皇の側について、上皇方を夜襲で破った。朝廷の争いを、武士の力が決めた最初の戦いだった。
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1159年12月42歳
平治の乱
清盛が熊野詣でに出ているすきに、源義朝が藤原信頼と組んで兵を挙げ、信西を殺した。清盛は京に戻って天皇を味方に引き入れ、義朝を破った。義朝の子の頼朝は伊豆に流された。
ライバルの源氏がいなくなり、平氏は武士の中で並ぶ者のない力を持った。
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1167年2月50歳
太政大臣となる
武士として初めて、朝廷の最高の位の太政大臣になった。3か月で辞めて出家し、摂津の福原に移った。大輪田泊(いまの神戸港)を整え、宋との貿易で富を集めた。
1172年、娘の徳子を高倉天皇の后とした。一門は30余りの国を知行し、「平家にあらずんば人にあらず」と言われた。1177年には、鹿ヶ谷で平家を倒す相談をした院の近臣を処罰した。
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1179年11月62歳
後白河法皇を幽閉する
長男の重盛が亡くなると、後白河法皇が平家の領地を取り上げた。清盛は数千騎で福原から上洛し、法皇を鳥羽殿に閉じこめ、反平家の貴族を大量に辞めさせた(治承三年の政変)。翌年、孫の安徳天皇を3歳で即位させた。
1180年5月、法皇の子の以仁王が平家を討てという命令を出して兵を挙げた。
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1180年6月63歳
福原遷都と、全国の反乱
都を福原に移したが、貴族や寺社の反発が強く、半年で京に戻した。この間に伊豆の頼朝、信濃の義仲が兵を挙げ、富士川では平家の大軍が戦わずに逃げ帰った。翌年閏2月、清盛は激しい熱病で亡くなった。64歳だった。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
本拠の移り変わり
- 1
六波羅
1156年ごろ〜1168年(39〜51歳)京の東、平家一門の屋敷が並んだ地。
- 2
福原
1168年〜1181年(51〜64歳)出家後に移り住み、宋との貿易の拠点とした。1180年には都とした。
地図は1179年の勢力図に、本拠の位置を重ねたものです。濃い色が平氏の勢力です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
諸説
「平家にあらずんば人にあらず」と言った
『平家物語』で、この言葉を言ったのは清盛ではなく、妻の兄の平時忠とされる。物語の言葉で、実際に言ったかは確かめられない。
諸説
実は白河法皇の子だった
母が白河法皇に仕えた女性だったことから、『平家物語』などに落胤説が見える。若くして異例の出世をした理由とする見方もあるが、確かな証拠はない。
後世の創作
熱病の体に水をかけると、湯気になって沸き立った
『平家物語』の誇張した描写。高い熱が出る病で亡くなったことは確か。
史料にある
宋との貿易で富を集めた
大輪田泊を整え、宋の商人を福原に招き、後白河法皇と宋の人を会わせたことが記録にある。宋の銭が大量に日本に入った。
数字で見る清盛
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
家族
主役のバトン
清盛が死んだあと
平氏の勢力は、清盛が死んだ時点で地図の上の48地域。5年後には、平氏の色の地域はなくなった。死んだ時点の平氏の地域は、5年後には源氏が47地域を支配していた。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
清盛が生まれたころの世界
- 1122年ヨーロッパヴォルムス協約(叙任権闘争の終結)
- 1124年日本中尊寺金色堂の完成
清盛が出てくる合戦絵巻
略年譜(源平合戦 勢力図の出来事から)
参考
- 元木泰雄『平清盛の闘い』(角川ソフィア文庫)
- 髙橋昌明『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ)