運命の分かれ目
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1180年9月27歳
信濃で兵を挙げる
2歳のとき、父の源義賢が、いとこの義平(頼朝の兄)に討たれた。木曾の中原兼遠のもとで育てられた。以仁王の命令を受け、頼朝の挙兵から1か月後に信濃で兵を挙げた。27歳だった。
1183年、頼朝と対立しかけたが、長男の義高を人質として鎌倉に送って和解した。
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1183年7月30歳
平家を都から追い、京に入る
平家は安徳天皇と三種の神器を連れて西へ落ちていき、義仲は京に入った。しかし、飢饉の京で兵が略奪をはたらき、皇位の継承に口を出して、後白河法皇や貴族に嫌われた。
法皇は頼朝に上洛を求めた。義仲は法皇の御所を攻め(法住寺合戦)、法皇を閉じこめて征夷大将軍となった。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
後世の創作
倶利伽羅峠で、角にたいまつをつけた牛を放った
「火牛の計」は『源平盛衰記』に見える話で、中国の戦国時代の話(田単の火牛)をもとにした創作とみられる。
諸説
女武者の巴御前が従っていた
巴御前は『平家物語』に登場するが、確かな史料には名が見えず、実在したかどうかはわからない。
史料にある
京で兵が乱暴をはたらいた
貴族の九条兼実の日記『玉葉』などに、義仲軍の略奪を嘆く記事がある。前の年からの大飢饉で、食料が足りなかった事情もあった。
数字で見る義仲
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
義仲が死んだあと
木曾義仲の勢力は、義仲が死んだ時点で地図の上の3地域。1年後には、木曾義仲の色の地域はなくなった。死んだ時点の木曾義仲の地域は、1年後には源氏が3地域を支配していた。
地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。
同じ時代、世界では
義仲が生まれたころの世界
- 1147年ヨーロッパ第2回十字軍
- 1154年ヨーロッパイングランドでプランタジネット朝が始まる
- 1163年ヨーロッパパリのノートルダム大聖堂の建設が始まる
義仲が出てくる合戦絵巻
略年譜(源平合戦 勢力図の出来事から)
参考
- 永井晋『源頼政と木曽義仲』(中公新書)