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源平合戦 勢力図の人物

木曾義仲(源義仲)きそ よしなか(みなもとの よしなか)

1154年〜1184年(数え31歳) / 朝日将軍 / 木曾義仲(源義仲)

信濃の山奥で育ち、平家を真っ先に都から追い落とした「朝日将軍」。都でつまずき、わずか半年で討たれた。

倶利伽羅峠で平家を破って入京したが、頼朝に討たれた。

木曾義仲の勢力

運命の分かれ目

  1. 1180年9月27歳

    信濃で兵を挙げる

    2歳のとき、父の源義賢が、いとこの義平(頼朝の兄)に討たれた。木曾の中原兼遠のもとで育てられた。以仁王の命令を受け、頼朝の挙兵から1か月後に信濃で兵を挙げた。27歳だった。

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  2. 1181年6月28歳

    横田河原の戦い

    越後の城氏の大軍を、信濃の横田河原で破った。北陸の武士たちが義仲のもとに集まった。

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  3. 1183年、頼朝と対立しかけたが、長男の義高を人質として鎌倉に送って和解した。

  4. 1183年5月30歳

    倶利伽羅峠の戦い

    平維盛が率いる平家の大軍を、加賀と越中の境の倶利伽羅峠で、夜襲で谷へ追い落とした。勢いに乗って京へ攻め上った。

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  5. 1183年7月30歳

    平家を都から追い、京に入る

    平家は安徳天皇と三種の神器を連れて西へ落ちていき、義仲は京に入った。しかし、飢饉の京で兵が略奪をはたらき、皇位の継承に口を出して、後白河法皇や貴族に嫌われた。

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  6. 法皇は頼朝に上洛を求めた。義仲は法皇の御所を攻め(法住寺合戦)、法皇を閉じこめて征夷大将軍となった。

  7. 1184年1月31歳

    粟津で討たれる

    頼朝が送った範頼・義経の軍に宇治川で敗れ、近江の粟津で討ち取られた。31歳だった。乳兄弟の今井兼平は、義仲の死を知って自害した。

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年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。

通説と実像

よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。

後世の創作

倶利伽羅峠で、角にたいまつをつけた牛を放った

「火牛の計」は『源平盛衰記』に見える話で、中国の戦国時代の話(田単の火牛)をもとにした創作とみられる。

諸説

女武者の巴御前が従っていた

巴御前は『平家物語』に登場するが、確かな史料には名が見えず、実在したかどうかはわからない。

史料にある

京で兵が乱暴をはたらいた

貴族の九条兼実の日記『玉葉』などに、義仲軍の略奪を嘆く記事がある。前の年からの大飢饉で、食料が足りなかった事情もあった。

数字で見る義仲

勢力が最も広かった年1184年20地域・約6.6万km²(31歳)
そのときの広さ23%この地図の範囲(北海道・沖縄をのぞく日本)のうち。その年の勢力の中で3位
地図に記された戦い7回源平合戦 勢力図の出来事のうち、義仲の名前が出てくる戦い

広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。

つながり

主役のバトン

木曾義仲(源義仲)1154年〜1184年(数え31歳)

義仲が死んだあと

1184年(死んだ時点)
1185年(1年後)
3死
01年後
02年後
03年後
04年後
05年後
06年後
07年後
08年後

木曾義仲の勢力は、義仲が死んだ時点で地図の上の3地域。1年後には、木曾義仲の色の地域はなくなった。死んだ時点の木曾義仲の地域は、1年後には源氏が3地域を支配していた。

死んだ年の勢力図を開く

地域の数は、この地図の地域区分で数えた目安です。

同じ時代、世界では

高宗(趙構)・1107年〜1187年・義仲より47歳年上徽宗の九男。南へ逃れて宋を再建し、金と和議を結んだ。
サラディン西アジア・1137年〜1193年・義仲より17歳年上十字軍からエルサレムを取り返したアイユーブ朝の祖。
リチャード1世(獅子心王)ヨーロッパ・1157年〜1199年・義仲より3歳年下第3回十字軍でサラディンと戦ったイングランド王。
チンギス・カンモンゴル・1162年〜1227年・義仲より8歳年下モンゴル高原を統一し、大帝国を築いた。生年は諸説ある。

義仲が生まれたころの世界

義仲が出てくる合戦絵巻

略年譜(源平合戦 勢力図の出来事から)

参考