運命の分かれ目
伊豆で20年を過ごし、伊豆の豪族の北条時政の娘、政子と結ばれた。
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1180年8月34歳
挙兵と石橋山の戦い
以仁王の平家討伐の命令を受け、伊豆で兵を挙げた。しかし相模の石橋山で平家方の大庭景親に大敗し、山中に隠れた。追手の梶原景時に見逃されたとも伝わる。船で安房へ逃れた。
房総の千葉常胤・上総広常らを味方につけ、大軍となって武蔵へ入った。
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1180年10月34歳
鎌倉に入り、富士川の戦い
父祖ゆかりの鎌倉に入って本拠とした。攻めてきた平維盛の軍は、富士川で夜に水鳥が飛び立つ音に驚いて逃げ帰った。頼朝は京へは向かわず、関東を固めることを選んだ。
侍所・公文所・問注所を置いて、御家人をまとめる仕組みをつくった。平家との戦いは、弟の範頼・義経に任せた。
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1185年11月39歳
守護・地頭を置く
壇ノ浦で平家が滅んだあと、後白河法皇が義経に頼朝追討を命じた。頼朝はこれを逆手に取って、義経を捕らえることを名目に、全国に守護と地頭を置くことを朝廷に認めさせた。武士が全国を治める仕組みの始まりだった。
1189年、義経をかくまった奥州藤原氏を、自ら大軍を率いて滅ぼした。
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1192年7月46歳
征夷大将軍となる
後白河法皇の死後、征夷大将軍に任じられた。7年後の1199年、53歳で亡くなった。その後、源氏の将軍は3代で絶え、政子の実家の北条氏が幕府を動かすことになる。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
居所の移り変わり
- 1
蛭ヶ小島(伊豆)
1160年〜1180年(14〜34歳)流人として20年を過ごした地。
- 2
鎌倉
1180年〜1199年(34〜53歳)父祖ゆかりの地。幕府の本拠となった。
地図は1185年の勢力図に、居所の位置を重ねたものです。濃い色が源氏の勢力です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
諸説
鎌倉幕府は1192年に成立した
頼朝が征夷大将軍になった1192年を成立の年としてきたが、守護・地頭を置いた1185年や、鎌倉に入った1180年とする見方もある。今の教科書は1185年を重視することが多い。
諸説
落馬がもとで亡くなった
幕府の記録『吾妻鏡』は、頼朝の死の前後の記事が欠けている。落馬は、その十数年後の記事に見える話で、病気だったとする説もある。
諸説
神護寺の有名な肖像画は頼朝
教科書でおなじみの「伝源頼朝像」を、足利直義を描いたものとする説が出され、議論が続いている。
史料にある
後白河法皇を「日本一の大天狗」と呼んだ
義経に頼朝追討を命じた法皇を、頼朝が手紙の中でこう非難したと『吾妻鏡』『玉葉』にある。
数字で見る頼朝
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
家族
主役のバトン
同じ時代、世界では
頼朝が生まれたころの世界
- 1147年ヨーロッパ第2回十字軍
- 1154年ヨーロッパイングランドでプランタジネット朝が始まる
頼朝が出てくる合戦絵巻
略年譜(源平合戦 勢力図の出来事から)
- 1160年3月14歳頼朝の伊豆配流
- 1180年5月34歳以仁王の挙兵
- 1180年8月34歳頼朝の挙兵と石橋山の戦い
- 1180年10月34歳頼朝の鎌倉入り
- 1180年10月34歳富士川の戦い
- 1180年10月34歳黄瀬川の対面
- 1180年11月34歳侍所の設置
- 1180年11月34歳金砂城の戦い
- 1181年2月35歳平清盛の死
- 1181年3月35歳墨俣川の戦い
- 1183年10月37歳寿永二年十月宣旨
- 1184年1月38歳宇治川の戦い
- 1184年6月38歳一条忠頼の誅殺
- 1184年8月38歳義経の検非違使任官
- 1184年10月38歳公文所・問注所の設置
- 1185年5月39歳腰越状
- 1185年10月39歳義経の挙兵と没落
- 1185年11月39歳守護・地頭の設置
- 1186年4月40歳静御前の舞
- 1187年2月41歳義経、平泉へ
- 1189年4月43歳衣川の戦い(義経の最期)
- 1189年8月43歳奥州合戦
- 1190年11月44歳頼朝の上洛
- 1192年3月46歳後白河法皇の崩御
- 1192年7月46歳頼朝の征夷大将軍就任
参考
- 元木泰雄『源頼朝』(中公新書)
- 坂井孝一『源氏将軍断絶』(PHP新書)