110月18日
富士川をはさんで
平家の追討軍は富士川の西岸に陣を敷いた。しかし飢饉で兵糧が集まらず、途中で逃げる兵も多く、兵の数は大きく減っていた。東岸には甲斐源氏が迫り、頼朝の大軍も黄瀬川に着いていた。
合戦絵巻 ─ 源平合戦 勢力図
10月18日
1180年(治承4年)10月20日、駿河国の富士川(いまの静岡県富士市)で、源頼朝・甲斐源氏の軍と、平維盛の率いる平家の追討軍が向かい合った。その夜、水鳥がいっせいに飛び立つ羽音を源氏の夜襲と思いこんだ平家軍は、戦わずに逃げ去った。『平家物語』の名場面として知られる戦いである。
上の観戦プレイヤーでは、平家の追討軍(平維盛)—と源氏(頼朝・甲斐源氏)—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの5つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
1180年、後白河法皇の皇子・以仁王が、平家を討てという命令(令旨)を全国の源氏に送った。以仁王の挙兵はすぐに鎮められたが、令旨を受けた伊豆の源頼朝は8月に兵を挙げた。
頼朝は石橋山の戦いで大敗し、海を渡って安房へ逃れた。しかし房総や武蔵の武士が次々に加わり、10月には源氏ゆかりの鎌倉に入った。同じころ、甲斐では武田信義ら甲斐源氏も兵を挙げていた。
平清盛は、孫の維盛を大将とする追討軍を東へ送った。ところが西日本はひどい飢饉で、兵糧が集まらない。途中で兵を集めながら進んだものの、逃げ出す兵も多く、富士川に着いたころには士気が落ちていた。
場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。
110月18日
平家の追討軍は富士川の西岸に陣を敷いた。しかし飢饉で兵糧が集まらず、途中で逃げる兵も多く、兵の数は大きく減っていた。東岸には甲斐源氏が迫り、頼朝の大軍も黄瀬川に着いていた。
210月19日
東国の武士をよく知る斎藤実盛は、「坂東武者は親が死のうが子が死のうが乗り越えて戦う」と語り、平家の兵たちはすっかりおびえた。
310月20日 夜
夜、富士川の沼にいた水鳥の群れが、何かに驚いていっせいに飛び立った。その羽音を源氏の大軍の夜襲と思いこんだ平家の兵は、武具も馬も置き捨てて、われ先に逃げ出した。
410月20日 夜
他人の馬に乗る者、つないだままの馬に乗って杭の周りを回る者もいたと『平家物語』は伝える。
5結果
源氏はほとんど戦わずに勝った。頼朝は逃げる平家を追って京へ上ろうとしたが、千葉常胤・上総広常らに「まず東国を固めるべき」と止められ、鎌倉に戻った。駿河・遠江は甲斐源氏が押さえた。
平家軍は飢饉で兵糧に苦しみ、兵の数も大きく減っていた。対する源氏は、頼朝の軍と甲斐源氏を合わせて大軍となっていた。斎藤実盛が語った坂東武者の勇猛さを聞いて、平家の兵はすっかりおびえていたという。
夜、何かに驚いた水鳥の群れがいっせいに飛び立った。その羽音を源氏の大軍の夜襲と思いこんだ平家軍は、武具も馬も捨てて逃げ出した。おびえていた軍は、小さなきっかけで崩れた。
平家軍に迫っていたのは、頼朝の本隊よりも先に駿河へ入っていた甲斐源氏だったとする見方が強い。夜に動いた甲斐源氏の軍が水鳥を驚かせたのではないかともいわれる。
34歳。逃げる平家を追って京へ上ろうとしたが、東国の武士たちに止められて鎌倉へ戻り、関東の支配を固めた。のちに鎌倉幕府を開く。
清盛の嫡孫。美男として知られた。戦わずに逃げ帰ったことで清盛の怒りを買った。のちの倶利伽羅峠の戦いでも大敗する。
甲斐源氏の棟梁。富士川の戦いで中心的な役割を果たしたとされ、戦いのあと駿河を押さえた。
もとは源氏に仕え、東国の武士をよく知る老武者。平家方として出陣し、坂東武者の強さを語って平家軍を震え上がらせた。3年後、白髪を黒く染めて篠原の戦いに出て、討死した。
頼朝は平家を追って京へ攻め上ろうとしたが、千葉常胤・上総広常・三浦義澄らに「まず東国を固めるべきだ」と止められた。頼朝は鎌倉に戻り、御家人を束ねる侍所を置いて、東国の武士の頭領としての体制を整えていった。
この戦いの直後、黄瀬川の陣で、奥州から駆けつけた弟の源義経と初めて対面したと伝わる。一方、平家は翌1181年に清盛を失い、源平の争いは各地へ広がっていく。
水鳥の羽音の話は『平家物語』で有名になった。鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』にも、水鳥の羽音に驚いて平家が逃げた話が見える。ただ、もともと兵糧不足で撤退を決めていた平家軍が、夜のうちに引き揚げたのだとする見方もある。
頼朝の軍は富士川からかなり離れた黄瀬川に陣を置いていたため、平家軍と向き合っていたのは甲斐源氏だった、とする研究が増えている。『吾妻鏡』が頼朝の活躍を中心に描いていることも考える必要がある。
| 1180年5月 | 以仁王・源頼政が挙兵し、敗れる |
|---|---|
| 1180年8月 | 源頼朝が伊豆で挙兵。石橋山の戦いで敗れる |
| 1180年10月 | 頼朝が鎌倉に入る |
| 1180年10月20日 | 富士川の戦い |
| 1180年10月 | 黄瀬川の陣で頼朝と義経が対面 |
| 1181年閏2月 | 平清盛が死去 |
| 1183年5月 | 倶利伽羅峠の戦い |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 平維盛総大将 | 数万(号) | 逃走 |
| 藤原忠清 | 敗走 | |
| 平家軍 | 敗走 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 水鳥の群れ | ||
| 源頼朝総大将 | 黄瀬川 | |
| 武田信義 | 甲斐源氏 | |
| 源氏軍 |
決め手
夜、富士川の沼にいた水鳥の群れが、何かに驚いていっせいに飛び立った。その羽音を源氏の大軍の夜襲と思いこんだ平家の兵は、武具も馬も置き捨てて、われ先に逃げ出した。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「源平合戦 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『平家物語』、『吾妻鏡』