12月18日 夜
阿波から山越え
嵐の中を阿波に渡った義経は、夜通し大坂越えの山道を進み、讃岐に入った。平家の主力は伊予の河野氏を攻めに出ていて、屋島には1000騎ほどしかいなかった。
合戦絵巻 ─ 源平合戦 勢力図
2月18日 夜
1185年(元暦2年)2月19日、讃岐国の屋島(いまの香川県高松市)で、源義経の軍が平家の本拠を急襲した。嵐をついて四国に渡り、陸から攻め寄せた義経に驚いた平家は、海へ逃れた。那須与一が船の上の扇を射落とした「扇の的」の話で知られる戦いである。
上の観戦プレイヤーでは、源氏(義経)約80と平家(宗盛)—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
1184年2月の一ノ谷の戦いで敗れた平家は、讃岐の屋島に仮の内裏を置き、瀬戸内海の水軍を背景に勢力を立て直していた。源氏には大きな水軍がなく、海の上の平家を攻めあぐねていた。
源範頼の本隊は山陽道を西へ進んだが、兵糧や船が足りず苦戦していた。そこで後白河法皇の許しを得た源義経が、摂津の渡辺から船で四国へ渡ることになった。
2月18日、嵐で海が荒れるなか、義経はわずか5艘、150騎ほどで出航を強行した。船頭たちは嫌がったが、義経は「追い風だ」と押しきったと伝わる。ふつうなら3日かかるところを、数時間で阿波の勝浦に着いたという。
場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。
12月18日 夜
嵐の中を阿波に渡った義経は、夜通し大坂越えの山道を進み、讃岐に入った。平家の主力は伊予の河野氏を攻めに出ていて、屋島には1000騎ほどしかいなかった。
22月19日 朝
義経は牟礼・高松の民家に火を放ち、少ない兵を大軍に見せかけて、干潮の浅瀬を渡って屋島の内裏に攻め寄せた。
32月19日 朝
海からの攻撃ばかりを考えていた平家は、陸からの奇襲に大軍が来たと思いこみ、あわてて船に乗って海へ逃れた。内裏は焼かれた。
42月19日 昼
船の上から、平家一の強弓の教経が義経を狙った。家臣の佐藤継信が身代わりとなって矢を受け、死んだ。
52月19日 夕方
夕暮れ、平家の船が1艘こぎ出し、竿の先に日の丸を描いた扇を立て、「射てみよ」と招いた。那須与一は馬を海に乗り入れ、揺れる船の扇を見事に射落とした。平家の人々は船ばたをたたいてほめ、源氏はえびらをたたいてどよめいた。
62月19日〜21日
戦いの中で義経は弓を海に落とし、危険を冒して拾い上げた。「弱い弓を敵に拾われて笑われたくない」と語ったという。平家は志度でも敗れ、彦島へ去った。
7結果
平家は四国の拠点を失った。瀬戸内の水軍の多くが源氏になびき、平家は長門の彦島に追いつめられた。
平家は源氏が海から攻めてくると考え、海に向けて守りを固めていた。義経は阿波から山を越え、背後の陸から攻め寄せた。予想外の方向からの奇襲に、平家は大混乱に陥った。
義経の兵は数百騎にすぎなかった。義経は周りの民家に火を放ち、煙を上げて大軍が押し寄せたように見せた。平家はあわてて船に乗り、海へ逃れた。
このとき平家の有力な部隊は、伊予の河野氏を攻めるために屋島を離れていた。義経は、その留守をついた形になった。
27歳。一ノ谷に続いて奇襲を成功させ、翌月の壇ノ浦で平家を滅ぼした。しかしその後、兄の頼朝と対立し、1189年に奥州平泉で自害した。
下野の若武者。夕暮れの海で揺れる船の扇を射落とし、敵味方からたたえられた。『平家物語』で最も有名な場面の一つである。
奥州から義経に従ってきた家臣。平教経が義経を狙って射た矢を身代わりに受けて死んだ。義経は大いに悲しんだと伝わる。
清盛の甥で、平家随一の勇将。強弓で義経を狙った。壇ノ浦では源氏の武者2人を両脇に抱えて海に飛びこんだと『平家物語』は描く。
清盛の三男で、平家の総大将。陸からの奇襲に驚いて船に移った。壇ノ浦で捕らえられ、鎌倉へ送られたのち斬られた。
屋島を失った平家は、讃岐の志度でも敗れ、長門の彦島へ退いた。四国の拠点を失ったことで、瀬戸内の水軍の多くが源氏になびき、熊野水軍や河野水軍も義経のもとに集まった。
1か月後の3月24日、義経は水軍を率いて関門海峡の壇ノ浦で平家と最後の決戦にのぞむ。平家は敗れ、幼い安徳天皇は祖母の二位尼に抱かれて海に沈んだ。
那須与一の話は『平家物語』で広く知られるが、同時代の確かな記録には見えず、与一が実在したかどうかもはっきりしない。物語として整えられた場面と考えるのがよい。
嵐をついて数時間で四国に渡ったという話も、『平家物語』による。義経が出航を急いだのは確かだとしても、細かな様子には物語としての脚色があると考えられる。
出航の前、梶原景時が船を後ろにも進められるよう「逆櫓」をつけようと言うと、義経は「はじめから逃げる用意をするのか」とはねつけたという。のちに景時が頼朝に義経のことを悪く告げ、兄弟の対立のもとになったとされる話である。
| 1183年7月 | 平家の都落ち |
|---|---|
| 1184年2月 | 一ノ谷の戦い |
| 1185年2月18日 | 義経が嵐の中、摂津から阿波へ渡る |
| 1185年2月19日 | 屋島の戦い |
| 1185年2月21日 | 志度の戦い。平家は彦島へ退く |
| 1185年3月24日 | 壇ノ浦の戦い。平家が滅ぶ |
| 1189年閏4月 | 義経が奥州平泉で自害 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 源義経総大将 | 80騎余り | |
| 弁慶・伊勢三郎 | ||
| 那須与一 | ||
| 牟礼・高松の民家 | 炎上 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 平宗盛総大将 | 逃走 | |
| 平教経 | 強弓 | |
| 平家の船 | 逃走 | |
| 扇の船 | 女房が扇を掲げる | 逃走 |
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「源平合戦 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『平家物語』、『吾妻鏡』