運命の分かれ目
-
1156年7月30歳
保元の乱
天皇になるはずではなかったが、29歳で即位した。翌年、兄の崇徳上皇と争い、平清盛・源義朝らの武士の力で上皇方を破った。崇徳上皇は讃岐に流された。
1158年、天皇の位をゆずって上皇となり、院政を始めた。平治の乱では、一時幽閉された。
-
1169年6月43歳
出家して法皇に
清盛と手を結び、清盛の妻の妹の滋子(建春門院)を后に迎えて、その子を高倉天皇とした。出家して法皇となった。今様(流行歌)を好み、その歌を集めた『梁塵秘抄』を編んだ。
滋子が亡くなると、清盛との仲は冷えていった。1177年、法皇の近臣が鹿ヶ谷で平家を倒す相談をしていたことが発覚した。
清盛の死後、院政を再開した。1183年、平家の都落ちには同行せず、比叡山に逃れて、入京した義仲を迎えた。
-
1183年10月57歳
頼朝に東国の支配を認める
京で乱暴をはたらく義仲を嫌い、頼朝に、東海道・東山道の国々を治めることを認める宣旨を出した(寿永二年十月宣旨)。頼朝の政権が朝廷に認められる第一歩となった。
義仲が滅び、平家も壇ノ浦で滅ぶと、今度は義経を重く用いた。
-
1185年10月59歳
義経に頼朝追討を命じる
義経の求めで、頼朝を討てという命令を出した。しかし義経に兵は集まらず、逆に頼朝の求めに応じて、全国に守護と地頭を置くことを認めた。頼朝はこのとき、法皇を「日本一の大天狗」と非難した。1192年3月、66歳で亡くなった。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
頼朝に「日本一の大天狗」と呼ばれた
義経に頼朝追討の命令を出したことを、頼朝が手紙で非難した言葉として『吾妻鏡』などに見える。
史料にある
今様に熱中し、喉をつぶした
自ら書いた『梁塵秘抄口伝集』に、昼も夜も歌い続けて、3度も声が出なくなったと書いている。
諸説
源氏と平家を争わせて、朝廷の力を保とうとした
武士を操った「策士」とされることが多いが、その時々に頼れる武士にすがっていただけだとする見方もある。
数字で見る後白河
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
同じ時代、世界では
後白河が生まれたころの世界
- 1122年ヨーロッパヴォルムス協約(叙任権闘争の終結)
- 1124年日本中尊寺金色堂の完成
- 1129年日本鳥羽上皇の院政が始まる
- 1130年ヨーロッパシチリア王国の成立
後白河が出てくる合戦絵巻
略年譜(源平合戦 勢力図の出来事から)
参考
- 美川圭『後白河天皇』(ミネルヴァ日本評伝選)
- 棚橋光男『後白河法皇』(講談社学術文庫)