今の河北町
山形県のほぼ中央、山形盆地の中にある町です。東を最上川、南を寒河江川に囲まれた平地に、田んぼと果樹園が広がります。江戸時代から明治のはじめにかけて、最上川舟運による紅花の集散地として栄え、上方から雛人形などの文化がもたらされました。今は「雛とべに花の里」を掲げ、さくらんぼの産地としても知られます。スリッパづくりや、冷たい肉そばでも知られる町です。
今の河北町の区域の人口は、2020年の国勢調査で17,641人です。今の区域で数えた1980年の21,880人とくらべると19.4%減り、人口は1985年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は37.7%です。
主な産業:さくらんぼや米などの農業と、スリッパなどの製造業が営まれます。
特産品・名産
- さくらんぼ町の木にも選ばれている果物
- 紅花室町時代から作られてきた町の花
- スリッパ町で多く作られている
- 冷たい肉そば町の名物として知られるそば
見どころ・祭り
- 紅花資料館紅花の歴史と文化を伝える資料館
- 谷地八幡宮林家舞楽が伝わる神社
- 最上川グリーンパーク最上川沿いの公園
木さくらんぼ花べに花河北町の木・花
河北町のなりたち
河北町(かほくちょう)は、山形県村山地方の町です。今の町の区域には、1920年(大正9年)の時点で、4の町村がありました。北谷地村・谷地町・西里村・溝延村です。これらの町村が、1回の合併や編入を経て、今の河北町になりました。
今の名前「河北町」は、1920年にあったどの町村の名前とも違い、合併のときに新しくつけられた名前です。もとの4の町村の名前は、自治体の名前としてはすべて消えました。
面積は、1920年の北谷地村が約22km²だったのに対し、今の河北町は約54km²と、およそ2.4倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は西村山郡に属していました。
「河北町」という名前
町の名は、1954年(昭和29年)に谷地町・西里村・溝延村・北谷地村が合併したときに付けられました。「河北」という名の由来ははっきりしていませんが、寒河江川の北に位置することから付けられたとも考えられます。町の中心の谷地は、中世から谷地郷と呼ばれた土地で、明治の谷地町が河北地方の中心となっていました。
まちの成り立ち
河北町の地は、平安時代には寒河江荘の一部で、鎌倉時代には大江広元の一族が治めました。1390年ごろには中条秀長が入り、谷地郷の開発を進めました。のちに白鳥十郎長久が谷地城を築いて谷地の町を形づくりましたが、最上義光に滅ぼされ、この地は最上氏の領地となりました。最上氏の改易のあとは、北部が新庄藩の領地、中部から南は幕府領などに分かれました。
室町時代から紅花が盛んに作られ、江戸時代から明治のはじめにかけて、谷地は最上川舟運による紅花の集散地として栄えました。紅花は酒田から船で京都・大阪へ運ばれ、帰りの船は雛人形などの上方の文化をもたらしました。
1889年(明治22年)の町村制で、谷地村・西里村・溝延村・北谷地村ができ、谷地村は1896年(明治29年)に町制を施行して谷地町となりました。
1954年(昭和29年)10月1日、谷地町・西里村・溝延村・北谷地村が合併して河北町が発足しました。そのあと、寒河江市から元泉地区、村山市から荒小屋地区が加わりました。今は「雛とべに花の里」として知られ、さくらんぼの産地でもあります。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、西村山郡に谷地村・西里村・溝延村・北谷地村・三泉村が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1896年4月2日明治29年西村山郡谷地村が町制を施行し、谷地町となった。種類:町制施行 出典:Wikipedia
- 1954年10月1日昭和29年西村山郡の谷地町・西里村・溝延村・北谷地村が合併し、河北町が発足した。種類:新設合併 出典:www.pref.yamagata.jp
- 1955年12月31日昭和30年寒河江市の一部(旧三泉村の造山・畑中)が河北町に編入された。種類:一部編入 出典:www.pref.yamagata.jp
- 1963年8月1日昭和38年村山市の一部(荒小屋地区)が河北町に編入された。種類:一部編入 出典:www.pref.yamagata.jp
- 1969年5月1日昭和44年河北町と東根市のあいだで境界が変更され、東根市の一部(松沢・長瀞・島大堀の各一部)が河北町に入った。種類:一部編入 出典:www.pref.yamagata.jp
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。