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安堵町あんどちょう

安堵町は、1920年からほぼ同じ区域のまま続いている町です。

1町村から

今の安堵町

奈良盆地の北西部、大和川と富雄川の合流点に近い町です。斑鳩町、大和郡山市、河合町、川西町に囲まれ、集落と田園、住宅地がまとまっています。町内を西名阪自動車道が東西に走り、周辺の鉄道駅へバスでつながります。陶芸家の富本憲吉や奈良県再設置に尽力した今村勤三を生んだ土地です。歴史民俗資料館では、藺草から灯芯を取り出す町の伝統技術が受け継がれています。

今の安堵町の区域の人口は、2020年の国勢調査で7,225人です。今の区域で数えた1980年の6,459人とくらべると11.9%ふえ、人口は1995年まではふえ、その後は少し減っています。65歳以上の人の割合は35.5%です。

7,225人人口(2020年)
+11.9%1980年からの増減
4.31km²面積(国土地理院)
1,676人/km²人口密度
35.5%65歳以上の割合
8,9411980199020052020
15歳未満 9.1%15〜64歳 55.4%65歳以上 35.5%
今の区域の人口(国勢調査)。各回の市町村の人口を、今の区域にまとめて集計(境界の一部の移動は含まない)。面積は国土地理院「全国都道府県市区町村別面積調」

主な産業:通勤圏の住宅地が広がり、農業と藺草を使う灯芯ひきの技術が受け継がれています。

特産品・名産

  • 灯芯藺草から芯を取り出して作る灯りの材料
  • 古代米かきもち資料館で収穫した古代米を使う菓子
  • 藺草飾り藺草を使い、町の技術を伝える工芸品

見どころ・祭り

  • 安堵町歴史民俗資料館旧今村邸で郷土の歴史と灯芯ひきを伝える
  • 中家住宅二重の濠に囲まれた江戸時代の屋敷
  • 太子道聖徳太子が往来したと伝えられる道

木モチノキ花テイカカズラ・ナデシコ安堵町の木・花

安堵町のなりたち

安堵町(あんどちょう)は、奈良県西部地域の町です。1920年(大正9年)の時点ですでに安堵村として今とほぼ同じ区域があり、それから一度も合併をしていない、県内でもめずらしい町です。

1920年の時点で、この区域の町村は生駒郡に属していました。

11920年の町村の数
0回合併・編入の回数
4km²今の面積

「安堵町」という名前

町名の「安堵」は、1889年にできた安堵村の名を引き継いでいます。村の成立に加わった5村のうち、東安堵村と西安堵村がこの名を使っていました。現在も東安堵・西安堵という地名が残っています。「安堵」という地名の詳しい由来ははっきりしていません。安堵村は1986年に町制を施行し、安堵町となりました。大和川と富雄川の合流点に近い、古くからの集落がまとまった町です。

まちの成り立ち

1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行により、平群郡の東安堵村・西安堵村・笠目村・窪田村・岡崎村の区域をまとめて安堵村が発足しました。1897年(明治30年)4月1日に平群郡と添下郡の区域で生駒郡が生まれ、安堵村は生駒郡に属しました。1986年(昭和61年)4月1日には町制を施行して安堵町となりました。東安堵・西安堵・笠目・窪田・岡崎は、今も町の地区名として使われています。

大和川と富雄川に近い土地では、暮らしと農業が長く結び付いてきました。町には藺草から灯芯を取り出す「灯芯ひき」の伝統があります。1996年には住民らによる灯芯保存会が結成され、藺草を育て、寺社へ灯芯を奉納する活動や体験会を続けています。

東安堵の旧今村邸は、町の歴史民俗資料館となっています。今村家からは、1887年の奈良県再設置運動を進めた今村勤三や、医学者の今村荒男が出ました。また、町は近代陶芸の富本憲吉の出身地です。窪田には濠に囲まれた中家住宅が残り、集落の歴史を伝えています。西名阪自動車道が町を東西に通り、周辺の鉄道駅を利用する住宅地としての暮らしも広がっています。

年表

  1. 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、平群郡東安堵村・西安堵村・笠目村・窪田村・岡崎村の区域で安堵村が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
  2. 1897年4月1日明治30年平群郡と添下郡の区域で生駒郡が発足し、安堵村は生駒郡に属した。種類:郡の変更 出典:Wikipedia
  3. 1986年4月1日昭和61年生駒郡安堵村が町制を施行し、安堵町となった。種類:町制施行 出典:www.pref.nara.lg.jp

名前の歩み

帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。

安堵村→安堵町1889〜今

参考にした資料