今の忠岡町
大阪府の泉北地域、大阪湾沿いの平野にある町です。町の北側を大津川が流れ、海辺には忠岡漁港や工業地、市街地には南海本線の忠岡駅を中心とする住宅地が広がっています。毛布やニットなどの繊維産業と木材工業が根づき、葉ごぼうやワタリガニも名産です。紀州街道沿いの町並みや忠岡神社、永福寺のびゃくしん、正木美術館などが、町の歴史や文化を伝えています。
今の忠岡町の区域の人口は、2020年の国勢調査で16,567人です。今の区域で数えた1980年の18,053人とくらべると8.2%減り、人口は2010年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は28.9%です。
主な産業:毛布・ニットなどの繊維工業と木材工業が根づき、農業・漁業も営まれています。
特産品・名産
- 毛布泉州の地場産業を受け継ぐ繊維製品
- 葉ごぼう町の畑で育てられる春の野菜
- ワタリガニ忠岡漁港で水揚げされる海の名物
見どころ・祭り
- 忠岡神社境内に巨木群が残る町の神社
- 永福寺のびゃくしん大阪府の天然記念物に指定された古木
- 正木美術館町に根づく歴史文化施設
- 紀州街道の町並み町を通る旧街道沿いの歴史的景観
木クス花サツキ忠岡町の木・花
忠岡町のなりたち
忠岡町(ただおかちょう)は、大阪府泉北地域の町です。1920年(大正9年)の時点ですでに忠岡村として今とほぼ同じ区域があり、それから一度も合併をしていない、府内でもめずらしい町です。
1920年の時点で、この区域の町村は泉北郡に属していました。
「忠岡町」という名前
「忠岡」は、1889年(明治22年)に忠岡村・高月村・北出村・馬瀬村の四村が合併した際に、新しい村へ引き継がれた名前です。旧忠岡村の地名は、1594年(文禄3年)の検地にも現れます。合併後の忠岡村は1939年に町となり、忠岡町になりました。「忠岡」という地名のさらに古い由来ははっきりしていません。
まちの成り立ち
1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行により、和泉郡の忠岡村・高月村・北出村・馬瀬村が合併し、新しい忠岡村が発足しました。1896年には和泉郡と大鳥郡が合わさって泉北郡となり、忠岡村も泉北郡に属しました。1939年(昭和14年)10月1日に町制を施行し、忠岡町となります。町村制のころにまとまった四村の区域が、現在の町の基礎になっています。
忠岡の村々の名は、豊臣秀吉の時代の1594年の検地に現れます。当時は忠岡村・上馬瀬村・下馬瀬村・北出村・高月村がありました。江戸時代には幕府領などを経て、1786年以降、一橋家、小泉藩、淀藩による領主支配が幕末まで続きました。旧村の暮らしは農業と漁業を背景に営まれ、現在の地名にも高月や北出、馬瀬の名が残っています。
近代以降は、泉州の繊維産業と結びつき、毛布やニットなどの工場が集まりました。1966年には臨海地区の木材コンビナートに合板会社などが進出し、繊維と木材の工業が町の産業を支えるようになります。南海本線の忠岡駅を中心に住宅地も広がり、大阪へ通う暮らしと、漁港や工場のある海辺の営みが重なっています。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、和泉郡忠岡村・高月村・北出村・馬瀬村が合併し、新しい忠岡村が発足した。種類:町村制 出典:www.town.tadaoka.osaka.jp
- 1896年4月1日明治29年大鳥郡と和泉郡の区域をもって泉北郡が発足し、忠岡村は泉北郡に属した。種類:郡の変更 出典:Wikipedia
- 1939年10月1日昭和14年泉北郡忠岡村が町制を施行し、忠岡町となった。種類:町制施行 出典:www.town.tadaoka.osaka.jp
名前の歩み
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。