今の館林市
群馬県の南東部にあり、北側を流れる渡良瀬川を挟んで栃木県と接します。城沼・多々良沼・茂林寺沼などの沼が点在し、沼辺の暮らしと文化は日本遺産「里沼」に認定されています。中心部は館林藩の城下町として発展した地域です。つつじが岡公園にはツツジの群落があり、周辺には旧城下町の歴史を伝える建物や寺社が残ります。良質な地下水と交通の便を背景に食品産業が集まっています。
今の館林市の区域の人口は、2020年の国勢調査で75,309人です。今の区域で数えた1980年の70,245人とくらべると7.2%ふえ、人口は2005年まではふえ、その後は少し減っています。65歳以上の人の割合は29.6%です。
主な産業:豊富な地下水を利用する食品産業が集まり、野菜の生産も行われています。
特産品・名産
- うどん市の名物として親しまれる麺料理
- 大根そば大根を合わせた名物のそば
- キュウリ市内で生産される特産野菜
見どころ・祭り
- つつじが岡公園躑躅ヶ岡は国の名勝
- 茂林寺沼低地湿原が残る沼
- 城沼城下町に接する沼
- 向井千秋記念子ども科学館館林出身の宇宙飛行士にちなむ科学館
木クロマツ花ヤマツツジ鳥カルガモ館林市の木・花・鳥
館林市のなりたち
館林市(たてばやしし)は、群馬県東部地域の市です。今の市の区域には、1920年(大正9年)の時点で、8の町村がありました。多々良村・渡瀬村・大島村・郷谷村・赤羽村・館林町・六郷村・三野谷村です。これらの町村が、1回の合併や編入を経て、今の館林市になりました。
今の名前「館林市」は、1920年にあった館林市の名前を受け継いでいます。ほかの7の町村の名前は、自治体の名前としては消えましたが、地区の名前や学校、駅などに残っていることが少なくありません。
面積は、1920年の館林町が約3km²だったのに対し、今の館林市は約61km²と、およそ19.1倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は邑楽郡に属していました。
「館林市」という名前
館林市の名は、近世の城下町であった館林の町から受け継がれました。「館林」の地名は15世紀中ごろの古文書にも現れますが、語源ははっきりしていません。江戸時代には館林藩の城下町として続き、1889年に邑楽郡館林町が発足しました。1954年には館林町と周辺の7村が新設合併し、館林市が誕生しました。現在の市名には、市街地の中心となった町の名が残されています。
まちの成り立ち
館林は邑楽郡の城下町として発展しました。1590年に榊原康政が入城して城と城下を整え、その後は徳川家とかかわりの深い大名家が治めました。廃藩置県の後は所管が群馬県、栃木県と変わり、1876年から群馬県に属しています。1889年4月1日の町村制で、邑楽郡館林町と郷谷村・大島村・赤羽村・六郷村・三野谷村・多々良村・渡瀬村が発足しました。
館林町は穀倉地帯である邑楽郡の中心にあり、周辺の農村を支える商業のまちになりました。1954年4月1日、館林町とこれら7村が新設合併し、館林市が誕生しました。昭和の大合併で城下町と周辺の農村が一つの市になり、その後の平成の大合併では他の市町村との合併を行っていません。
渡良瀬川沿いの平野には城沼・多々良沼・茂林寺沼などが点在します。沼辺の暮らしや信仰、城下町の文化は、日本遺産「里沼」として受け継がれています。東武鉄道や東北自動車道が首都圏と結び、良質な地下水を利用する食品産業も集まりました。町村名だった多々良・渡瀬・赤羽などは、現在も地区の呼び名として残っています。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、邑楽郡に赤羽村・大島村・郷谷村・多々良村・館林町・三野谷村・六郷村・渡瀬村が発足した。種類:町村制 出典:www.pref.gunma.jp
- 1954年4月1日昭和29年館林町・郷谷村・大島村・赤羽村・六郷村・三野谷村・多々良村・渡瀬村が新設合併し、館林市が生まれた。種類:新設合併 出典:www.pref.gunma.jp
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。