今の明和町
群馬県東南部、南の利根川と北の谷田川の間に広がる平坦な町です。東武伊勢崎線や国道122号、東北自動車道が通り、農地と住宅地、工業の地域が隣り合います。米や野菜に加え、梨・桃、シクラメンやわい性カーネーションが栽培されます。川俣事件の記念碑や矢島遺跡には地域の歴史が残り、ふるさとの広場や文化施設が住民の交流と憩いの場所になっています。
今の明和町の区域の人口は、2020年の国勢調査で10,882人です。今の区域で数えた1980年の9,815人とくらべると10.9%ふえ、人口は2000年まではふえ、その後は少し減っています。65歳以上の人の割合は30.7%です。
主な産業:米・野菜・梨や桃、花きの施設園芸と、交通条件を生かした製造業が営まれています。
特産品・名産
- 梨
- 桃(明和の乙女)
- わい性カーネーション
見どころ・祭り
- 矢島遺跡縄文時代の暮らしを伝える遺跡
- 川俣事件記念碑1900年の鉱毒反対運動を伝える碑
- ふるさとの広場芝生や運動施設がある広場
- 日本キャンパックホールふるさと産業文化館
木ツゲ花キク明和町の木・花
明和町のなりたち
明和町(めいわまち)は、群馬県東部地域の町です。今の町の区域には、1920年(大正9年)の時点で、3の町村がありました。梅島村・千江田村・佐貫村です。これらの町村が、1回の合併や編入を経て、今の明和町になりました。
今の名前「明和町」は、1920年にあったどの町村の名前とも違い、合併のときに新しくつけられた名前です。もとの3の町村の名前は、自治体の名前としてはすべて消えました。
面積は、1920年の千江田村が約7km²だったのに対し、今の明和町は約20km²と、およそ2.8倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は邑楽郡に属していました。
「明和町」という名前
「明和」の名は、1955年(昭和30年)3月1日に千江田村・梅島村・佐貫村の三村が新設合併して明和村となった際に使われるようになりました。三つの旧村は利根川北岸の平坦な地域にあり、村々の農地や集落が一つの自治体にまとまりました。1998年(平成10年)10月1日に町制を施行した際も名を引き継ぎ、明和町として現在に至っています。
まちの成り立ち
明和町は利根川と谷田川の間に広がる平坦な地域です。矢島遺跡などには縄文時代からの暮らしが残り、川俣では利根川の船着き場と往来を背景に集落が育ちました。田山花袋は川俣の料理屋と船着き場の空気を題材に、小説「土手の家」を執筆しています。
1889年(明治22年)4月1日の町村制で、今の町域には邑楽郡千江田村・梅島村・佐貫村が発足しました。1900年(明治33年)2月13日、足尾銅山の鉱毒被害に苦しむ農民が政府への直訴に向かい、川俣で警察官と衝突する川俣事件が起こりました。町内の記念碑がその出来事を伝えています。1955年(昭和30年)3月1日には三村が新設合併して明和村となり、1998年(平成10年)10月1日に町制を施行して明和町となりました。
農業では米麦に加え、施設野菜や露地野菜、梨・桃などの果樹、シクラメンやわい性カーネーションの施設園芸が育っています。東武伊勢崎線や国道122号、東北自動車道による交通条件を生かして企業も立地し、商工業と住宅地が広がりました。ふるさとの広場や文化施設、川俣駅前の交流施設などが人々の集まる場所となっています。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、邑楽郡千江田村・梅島村・佐貫村が発足した。種類:町村制 出典:www.pref.gunma.jp
- 1955年3月1日昭和30年邑楽郡千江田村・梅島村・佐貫村が新設合併し、明和村が発足した。種類:新設合併 出典:www.pref.gunma.jp
- 1998年10月1日平成10年邑楽郡明和村が町制を施行し、明和町となった。種類:町制施行 出典:www.pref.gunma.jp
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。