14月6日 15:20
徳山沖を出撃
沖縄に上陸した米軍に対する「天一号作戦」として、戦艦大和・軽巡矢矧・駆逐艦8隻の第二艦隊が、山口県の徳山沖を出撃した。沖縄の海岸に乗り上げて砲台となることまで想定した、航空機の護衛のない「海上特攻」だった。
合戦絵巻 ─ 太平洋戦争 勢力図
4月6日 15:20
1945年(昭和20年)4月7日、九州南方の坊ノ岬沖で、沖縄へ向かう「海上特攻」に出撃した戦艦大和が、アメリカの空母から飛び立った約400機の攻撃を受けて沈んだ。軽巡矢矧と駆逐艦4隻も沈み、約3700人が亡くなった。日本海軍の艦隊としての戦いは、この戦いで終わった。
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1944年のレイテ沖海戦で連合艦隊は大きな損害を受け、日本海軍は艦隊として戦う力をほとんど失っていた。戦艦大和は、世界最大の46cm主砲を持つ戦艦だったが、活躍の場はほとんどなかった。
1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸した。日本は航空機による特攻を大規模に行うとともに(菊水作戦)、残った艦隊にも出撃を命じた(天一号作戦)。
大和・矢矧・駆逐艦8隻の第二艦隊は、航空機の護衛のないまま沖縄へ向かうことになった。沖縄の海岸に乗り上げて砲台となることまで想定した、生還を期さない出撃だった。
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14月6日 15:20
沖縄に上陸した米軍に対する「天一号作戦」として、戦艦大和・軽巡矢矧・駆逐艦8隻の第二艦隊が、山口県の徳山沖を出撃した。沖縄の海岸に乗り上げて砲台となることまで想定した、航空機の護衛のない「海上特攻」だった。
24月6日 夜
豊後水道を抜けたところで、見張っていた米潜水艦が艦隊を発見し、ただちに報告した。米軍は大和の出撃を知り、第58任務部隊の空母部隊が迎え撃つ準備を始めた。
34月7日 朝
艦隊は九州の南端を回って大隅海峡を抜け、敵をあざむくためにいったん西へ進んだ。しかし米軍の飛行艇がつかず離れず艦隊を追い続けた。午前10時ごろ、沖縄の東の米空母から約390機の攻撃隊が飛び立った。
412:32頃
雲の低い空から、艦爆・雷撃機・戦闘機の大編隊が一斉に襲いかかった。大和は爆弾2発と魚雷1本を受け、駆逐艦浜風は轟沈した。矢矧も魚雷を受けて航行不能になった。大和は猛烈な対空砲火で応戦した。
513:00〜
第2波の雷撃機は、大和の左舷に魚雷を集中させた。浸水で船体が左に傾き始め、傾きを戻すために右舷の区画に注水したが、速度は落ちていった。
613:40〜
さらに攻撃が続き、矢矧は魚雷7本・爆弾12発を受けて14時05分に沈んだ。駆逐艦朝霜・磯風・霞も沈没または航行不能となった。大和には合わせて魚雷10本以上、爆弾7発以上が命中したとされる。
714:23
傾きが大きくなった大和は、伊藤整一中将が作戦中止を命じた後、横転した。その直後、主砲の弾薬庫が大爆発を起こし、立ち上った煙は約200km離れた鹿児島からも見えたという。
8結果
日本:大和・矢矧・駆逐艦4隻が沈み、大和の乗員約3300人のうち生還したのは約280人、全体で約3700人が戦死した。米国:航空機10機を失い、12人が戦死した。雪風・冬月など残る駆逐艦4隻が生存者を救助して佐世保へ帰った。航空機の護衛のない艦隊が航空機の前にいかに無力かを示し、日本海軍の艦隊としての戦いはここで終わった。
第二艦隊には、空から守る戦闘機がほとんどなかった。艦隊は対空砲火だけで、約400機の攻撃に立ち向かわなければならなかった。
艦隊は豊後水道を出たところで米潜水艦に見つかり、その後も米軍の飛行艇に追跡され続けた。進路を偽る動きも見抜かれ、米空母部隊は余裕をもって攻撃隊を送り出した。
米雷撃隊は大和の左舷に魚雷を集中させた。浸水で船体が傾き、反対側に注水して立て直そうとしたが、速度が落ち、やがて横転した。
第二艦隊司令長官。出撃に反対したとも伝えられるが、命令を受けて艦隊を率いた。作戦中止を命じたのち、大和とともに沈んだ。
大和の艦長。最後まで艦橋で指揮をとり、艦とともに沈んだ。
大和の副電測士として乗り組み、生還した。戦後、その体験を『戦艦大和ノ最期』に記した。
大和の乗員約3300人のうち、生還したのは約280人だった。艦隊全体で約3700人が亡くなった。アメリカ側の損失は航空機10機、戦死者12人だった。雪風・冬月など残った駆逐艦が生存者を救助し、佐世保へ帰った。
沖縄では、6月下旬まで激しい地上戦が続き、多くの住民が犠牲になった。8月、広島・長崎への原爆投下とソ連の参戦を経て、日本は8月15日にポツダム宣言の受け入れを国民に伝え、戦争は終わった。
航空機の護衛のない艦隊が航空機の前に無力なことは、すでにマレー沖海戦やレイテ沖海戦で明らかだった。大和の出撃は、勝算のない作戦に多くの命を費やしたとして、戦後厳しく批判されてきた。一方で、「海軍の最後の戦い」として、多くの人々に記憶されている。
大和の沈没地点は、鹿児島県の坊ノ岬の西南西約200kmの海底とされる。1985年に船体が確認され、その後も調査が行われて、船体が二つに割れて沈んでいる様子がわかった。
| 1941年12月 | 戦艦大和が完成 |
|---|---|
| 1944年10月 | レイテ沖海戦。戦艦武蔵が沈む |
| 1945年4月1日 | アメリカ軍が沖縄本島に上陸 |
| 1945年4月6日 | 第二艦隊が徳山沖を出撃 |
| 1945年4月7日 | 坊ノ岬沖海戦。戦艦大和が沈む |
| 1945年8月15日 | 終戦 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 大和 | 1隻 | 沈没 |
| 軽巡 矢矧 | 1隻 | 沈没 |
| 浜風 | 1隻 | 沈没 |
| 磯風 | 1隻 | 沈没 |
| 朝霜 | 1隻 | 沈没 |
| 霞 | 1隻 | 沈没 |
| 雪風 | 1隻 | |
| 冬月 | 1隻 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 米潜水艦 | 1隻 | |
| 米軍の偵察機(触接) | 飛行艇 | |
| 第1波 艦爆 | 約60機 | |
| 第1波 雷撃機 | 約40機 | |
| 戦闘機 | 約80機 | |
| 第2波 雷撃機 | 約60機 | |
| 第2波 艦爆 | 約70機 | |
| 第3波 雷撃機 | 約80機 |
決め手
傾きが大きくなった大和は、伊藤整一中将が作戦中止を命じた後、横転した。その直後、主砲の弾薬庫が大爆発を起こし、立ち上った煙は約200km離れた鹿児島からも見えたという。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人(船は1艘)を表します。この戦いは「太平洋戦争 勢力図」の中でも、アニメとして見られます。
主な参考:吉田満『戦艦大和ノ最期』(講談社文芸文庫)、防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書』(朝雲新聞社)