合戦絵巻 ─ 楚漢戦争 勢力図

彭城の戦い

前205年4月 / 楚 彭城

前205年4月

彭城の酒宴

1粒=約100人

紀元前205年4月、楚の都・彭城(いまの江蘇省徐州市)で、項羽がわずか3万の精兵で、劉邦の率いる56万の諸侯連合軍を打ち破った。都を奪われ、酒宴にふけっていた漢軍を、項羽は西から奇襲した。逃げる漢軍は川に追い落とされ、劉邦は大風に紛れてかろうじて逃れた。項羽の戦いの中でも最も名高い勝利である。

上の観戦プレイヤーでは、楚軍(項羽)約3万と漢と諸侯の連合軍(劉邦)約56万、あわせて約59万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

楚軍(項羽)
約3万
漢と諸侯の連合軍(劉邦)
約56万
いつ
前205年4月 → 結果

なぜ戦ったのか

鴻門の会のあと、劉邦は辺境の漢中の王とされた。前206年の夏、劉邦は漢中から打って出て、関中を手に入れた。項羽に不満を持つ諸侯も劉邦のもとに集まった。

そのころ項羽は、背いた斉を攻めて東へ出ていた。劉邦はこの留守をついて、諸侯の軍を合わせた56万の大軍で東へ進み、前205年4月、楚の都・彭城に入った。

劉邦の軍は彭城で財宝と美女を奪い、毎日酒宴を開いた。項羽が斉から戻ってくるとは、ほとんど考えていなかった。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

1前205年4月

彭城の酒宴

項羽が斉で戦っている間に、劉邦は56万の諸侯軍で楚の都の彭城に入った。財宝と美女を奪い、毎日酒宴を開いて、項羽が戻ってくるとは考えていなかった。

2前夜

西へ回りこむ

知らせを聞いた項羽は、主力を斉に残し、3万の精兵だけを率いて南へ急いだ。漢軍が東の斉の方を警戒している中、項羽はぐるりと西の蕭へ回りこんだ。

3夜明け

西からの奇襲

夜明けとともに、項羽は西から漢軍に襲いかかった。油断していた漢軍は総崩れとなり、昼までに彭城から追い出された。

4昼

穀水・泗水・睢水

逃げる漢軍は東の穀水・泗水に追い落とされ、10万余りが死んだ。南へ逃げた者も霊壁の東の睢水で追いつかれ、さらに10万余りが川に落ちて、睢水は死体で流れが止まったという。

5昼

大風

劉邦は3重に囲まれたが、そのとき西北から大風が吹き、木を折り、家を倒し、砂を巻き上げて昼なのに真っ暗になった。楚軍が乱れた隙に、劉邦は数十騎で囲みを破って逃れた。途中で子どもたち(のちの恵帝と魯元公主)を拾ったが、追っ手が迫ると車から突き落とした。そのたびに御者の夏侯嬰が拾い上げた。

6結果

彭城の戦いの結果

劉邦の父と妻の呂雉は楚に捕らえられた。劉邦についていた諸侯の多くは楚へ寝返った。3万で56万を破ったこの戦いは、項羽の戦いの中でも最も名高い。劉邦は滎陽まで逃げて兵を立て直した。

勝敗を分けたもの

少数の精兵で急ぐ

項羽は、主力を斉に残したまま、3万の精兵だけを率いて急いで南へ戻った。大軍を連れて戻るより速さを選んだことが、奇襲を可能にした。

西からの奇襲

漢軍は東の斉の方を警戒していた。項羽はぐるりと西へ回りこみ、夜明けとともに西から襲いかかった。油断していた漢軍は総崩れとなった。

寄せ集めの大軍

56万の大軍は、さまざまな諸侯の軍の寄せ集めで、指揮もまとまっていなかった。一度崩れると立て直せず、逃げる兵どうしで押し合って川に落ちた。

主な武将とその後

項羽楚軍(項羽)

西楚の覇王。この大勝で楚の力を見せつけたが、劉邦を捕らえることはできなかった。

劉邦漢と諸侯の連合軍(劉邦)

大敗して滎陽まで逃げた。父と妻の呂雉は楚に捕らえられた。それでも兵を立て直し、項羽との戦いを続けた。

夏侯嬰漢と諸侯の連合軍(劉邦)

劉邦の車の御者。逃げる途中、劉邦が追っ手を恐れて子どもたちを車から突き落とすたびに、拾い上げて救ったと伝わる。助けられた男の子は、のちの漢の2代皇帝・恵帝である。

合戦のあと

漢軍は川に追い落とされ、10万余りが死んだと『史記』は伝える。劉邦についていた諸侯の多くは、楚の側へ寝返った。

劉邦は滎陽で踏みとどまり、関中から兵と食糧を送り続けて、項羽との長いにらみ合いに入った。一方、別働隊を率いる韓信は北で魏・趙・斉を次々に平定し、やがて項羽を追いつめていく。

諸説と論点

「56万」と「3万」

兵力の数字は『史記』によるもので、誇張があると考えられている。それでも、項羽が少ない兵で何倍もの大軍を破ったことは確かで、項羽の用兵の見事さを示す戦いとして語られてきた。

大風

劉邦が囲まれたとき、西北から大風が吹いて砂を巻き上げ、昼なのに真っ暗になったため逃げられた――という話は、天が劉邦に味方したことを示す逸話として『史記』に記されている。

関連年表

前206年鴻門の会。劉邦が漢王となる
前206年夏劉邦が関中を手に入れる
前205年4月彭城の戦い
前204年井陘の戦い(背水の陣)
前204年濰水の戦い
前202年垓下の戦い。項羽が死ぬ

両軍の陣容

楚軍(項羽)約3万

部隊兵力その後
項羽総大将精兵3万
楚の騎兵

漢と諸侯の連合軍(劉邦)約56万

部隊兵力その後
劉邦総大将諸侯軍56万
漢軍討死・壊滅
諸侯軍討死・壊滅
諸侯軍敗走
漢軍討死・壊滅
夏侯嬰の車劉邦の子ら

決め手

西からの奇襲

夜明けとともに、項羽は西から漢軍に襲いかかった。油断していた漢軍は総崩れとなり、昼までに彭城から追い出された。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「楚漢戦争 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:司馬遷『史記』項羽本紀・高祖本紀、佐竹靖彦『劉邦』(中央公論新社)