合戦絵巻 ─ 楚漢戦争 勢力図

井陘の戦い(背水の陣)

前205年10月 / 趙 井陘

前夜

伏兵を送る

1粒=約100人

紀元前205年(漢の3年)10月、太行山脈を越える要衝・井陘の出口で、漢の将軍・韓信が、20万と号する趙の大軍を、わずか数万の兵で破った。川を背にして逃げ場のない陣を敷き、そのすきに別働隊に敵の砦を奪わせた奇策は、「背水の陣」という言葉として今に残っている。

上の観戦プレイヤーでは、漢軍(韓信・張耳)約1.4万と趙軍(陳余・趙王歇)約20万、あわせて約21万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

漢軍(韓信・張耳)
約1.4万
趙軍(陳余・趙王歇)
約20万
いつ
前夜 → 結果

なぜ戦ったのか

秦が滅んだのち、天下は西楚の覇王・項羽と、漢王・劉邦の争いとなった(楚漢戦争)。紀元前205年の春、劉邦は諸侯の軍を率いて項羽の都・彭城を占領したが、戻ってきた項羽にわずか3万の兵で打ち破られ、滎陽まで逃げ帰った。これをきっかけに、魏や趙などの諸国は漢から離れた。

劉邦は、自分は正面で項羽を食い止め、韓信に別の軍を与えて北の国々を平定させた。韓信はまず、夏に魏王豹を破り、続いて代を攻めた。しかし精鋭の多くは項羽との戦いのため劉邦のもとに呼び戻され、韓信の手元に残ったのは、戦いに慣れない兵が多かった。

韓信と張耳は、趙を攻めるため井陘を目指した。趙王歇と、実権を握る陳余は、20万と号する兵を井陘の出口に集めた。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

1前夜

伏兵を送る

韓信は井陘の狭い道の手前で止まり、夜中に軽騎兵2000に1本ずつ赤い旗を持たせ、山の間の道から趙の砦を見下ろす所に伏せさせた。「趙は我らが逃げるのを見れば、砦を空にして追ってくる。そこへ入って趙の旗を抜き、漢の赤い旗を立てよ」と命じた。

2夜明け前

川を背に陣を敷く

韓信は1万の兵を先に進ませ、綿蔓水を渡らせて、川を背にして陣を敷かせた。兵法では、陣は山を背に、水を前にするもの。趙軍はこれを見て大笑いした。

3朝

大将の旗を立てて進む

夜が明けると、韓信は大将の旗を立て、太鼓を鳴らして井陘の口から出た。趙軍は砦を開いて迎え撃ち、激しい戦いがしばらく続いた。

4朝

わざと逃げる

韓信と張耳は、旗と太鼓を捨てたふりをして、川べりの陣に逃げこんだ。趙軍は手柄を立てようと、砦を空にして全軍で追ってきた。背水の陣の兵は、もう逃げ場がない。みな死にものぐるいで戦い、趙軍は打ち破れなかった。

5昼

赤い旗

そのすきに、2000の騎兵が空になった趙の砦に駆けこみ、趙の旗を抜いて漢の赤い旗2000本を立てた。

6昼

趙軍の崩壊

勝てずに砦に戻ろうとした趙軍は、自分たちの砦が漢の赤い旗で埋まっているのを見て、趙王も将も捕らえられたと思い込み、総崩れとなった。漢軍は前後からはさみうちにし、陳余は泜水のほとりで斬られ、趙王歇は捕らえられた。

7結果

背水の陣

祝いの席で諸将が「兵法に反した陣でなぜ勝てたのか」と尋ねると、韓信は「兵法に『死地に陥れて後に生く』とある。寄せ集めの兵は、逃げ場があれば逃げてしまう」と答えた。「背水の陣」の言葉はここから生まれた。韓信は捕らえた趙の軍師・李左車を師として敬い、その策で燕を戦わずに降した。

勝敗を分けたもの

採用されなかった李左車の策

趙の軍師・李左車は、「井陘の道は狭く、韓信の輜重(荷物の列)は後ろに遅れる。3万の兵で間道から輜重を断ち、本陣は守りを固めて戦わなければ、10日で韓信の首が取れる」と進言した。しかし陳余は「正義の兵は、だまし討ちや奇策は使わない」と退けた。韓信はこれを探って知り、安心して兵を進めた。

背水の陣

川を背にした陣は、兵法ではやってはいけないとされる。趙軍はこれを見て笑った。しかし逃げ場のない漢の兵は、死にものぐるいで戦い、大軍の攻撃を持ちこたえた。

空になった砦と赤い旗

趙軍が全軍で漢軍を追っている間に、伏せていた漢の騎兵2000が空の砦に入り、赤い漢の旗を立てた。砦に戻ろうとした趙軍は、自分たちの砦が漢の旗で埋まっているのを見て、趙王が捕らえられたと思い込み、総崩れになった。

主な武将とその後

韓信漢軍(韓信・張耳)

若いころ、町の無頼の股の下をくぐったという「韓信の股くぐり」の話で知られる。項羽のもとで重く用いられず、劉邦に仕えて大将軍となった。魏・代・趙・燕・斉を平定し、垓下の戦いでも中心となったが、漢の成立後に謀反の疑いをかけられ、紀元前196年に処刑された。

張耳漢軍(韓信・張耳)

魏の名士で、陳余とは親子ほど年が離れながら「刎頸の交わり」を結んだ親友だった。しかし秦末の混乱の中で仲たがいし、この戦いでは敵として向き合った。戦後、趙王に立てられた。

陳余趙軍(陳余・趙王歇)

趙の実権を握っていた将軍。儒者らしく正攻法にこだわり、李左車の策を用いなかった。敗れて泜水のほとりで斬られた。

李左車趙軍(陳余・趙王歇)

趙の軍師。戦後、捕らえられると、韓信は縄を解いて上座に座らせ、師として教えを請うた。李左車の進言に従い、韓信は燕に使者と手紙を送るだけで降伏させた。

合戦のあと

趙を破った韓信は、李左車の策によって燕を戦わずに降らせ、続いて紀元前204年から203年にかけて東の斉を攻めた。濰水の戦いで斉と楚の援軍を破って斉を平定すると、韓信は斉王となった。

これで、項羽の楚は北と東を漢の勢力に囲まれる形になった。劉邦が正面で項羽を引きつけ、韓信が周りの国々を平らげるという漢の戦略は、紀元前202年の垓下の戦いで実を結ぶ。

諸説と論点

背水の陣は「根性」の策だったのか

「背水の陣」は、今では「退路を断って必死の覚悟で臨む」という意味で使われる。しかし井陘の勝利は、兵を必死にさせたことだけでなく、別働隊による砦の奪取、敵将の性格の読み、情報収集を組み合わせた、計算ずくの作戦だった。

「死地に陥れて後に生く」

戦いの後、諸将に理由を尋ねられた韓信は、兵法書の「これを死地に陥れて、しかる後に生く」という言葉を引いた。これは『孫子』の九地篇にある考え方である。

年代の数え方

当時の暦は10月を年の初めとしていたため、この戦いは「漢の3年10月」にあたる。西暦に直すと紀元前205年の末から204年にかかる時期で、本によって紀元前204年とするものもある。

関連年表

紀元前206年劉邦が漢王となる。楚漢戦争が始まる
紀元前205年4月彭城の戦い。劉邦が項羽に大敗する
紀元前205年韓信が魏王豹を破り、代を平定する
紀元前205年10月井陘の戦い(背水の陣)
紀元前204年韓信が燕を降らせる
紀元前203年濰水の戦い。韓信が斉を平定し、斉王となる
紀元前202年垓下の戦い。項羽が死に、劉邦が皇帝となる

両軍の陣容

漢軍(韓信・張耳)約1.4万

部隊兵力その後
韓信・張耳総大将大将の旗と太鼓
背水の陣1万勝利
軽騎兵2000(赤い旗)
漢の赤い旗2000本

趙軍(陳余・趙王歇)約20万

部隊兵力その後
陳余総大将20万(号)討死・壊滅
趙軍敗走
趙軍敗走
趙王歇降伏

決め手

赤い旗

そのすきに、2000の騎兵が空になった趙の砦に駆けこみ、趙の旗を抜いて漢の赤い旗2000本を立てた。

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「楚漢戦争 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:司馬遷『史記』淮陰侯列伝