合戦絵巻 ─ 楚漢戦争 勢力図

垓下の戦い(四面楚歌)

前202年12月 / 垓下

前202年12月

包囲網

1粒=約100人

紀元前202年(漢の5年)12月、垓下で、韓信・彭越・英布らの軍を集めた劉邦の大軍が、西楚の覇王・項羽を包囲した。夜、四方の漢軍から楚の歌が聞こえてくると、項羽は楚の地がすでに漢のものになったと嘆いた。「四面楚歌」の由来となったこの戦いで項羽は敗れ、烏江で自ら命を絶った。劉邦は皇帝となり、漢の時代が始まる。

上の観戦プレイヤーでは、楚軍(項羽)約10万と漢と諸侯の連合軍約31万、あわせて約41万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

楚軍(項羽)
約10万
漢と諸侯の連合軍
約31万
いつ
前202年12月 → 結果

なぜ戦ったのか

楚漢戦争は、はじめ項羽が圧倒的に強かった。紀元前205年の彭城の戦いでは、項羽はわずか3万の兵で劉邦の諸侯連合軍を打ち破った。しかし劉邦は何度敗れても立ち上がり、蕭何が関中から兵と食料を送り続け、韓信が北と東の国々を平定していった。

紀元前203年、両軍は広武山で長くにらみ合った。項羽は食料が乏しくなり、劉邦と和議を結んで、鴻溝を境に天下を二分することにした。人質にしていた劉邦の父と妻も返し、東へ引き上げはじめた。

ところが劉邦は、張良と陳平の「今こそ楚を滅ぼす好機」という進言に従って和議を破り、項羽を追った。はじめは韓信と彭越が約束どおりに来なかったため固陵で敗れたが、二人に広い領地を約束すると、両軍はすぐに駆けつけた。こうして漢の大軍が、垓下の項羽を取り囲んだ。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

1前202年12月

包囲網

和議を破った劉邦のもとに、韓信・彭越・英布らの軍が集まり、垓下の項羽を取り囲んだ。韓信が30万で正面に立ち、左右に孔将軍・費将軍、後ろに劉邦が控えた。

2決戦

韓信の正面攻撃

韓信が攻めかかったが、項羽の反撃で押し戻された。そこで左右の孔将軍・費将軍が横から攻め、韓信も盛り返して楚軍を破った。項羽は砦にこもった。

3夜

四面楚歌

夜、漢軍の四方から楚の歌が聞こえてきた。項羽は「漢はもう楚を取ったのか。なぜ楚の人がこんなに多いのか」と驚いた。張良の策で、降った楚兵に歌わせたともいう。

4夜

力は山を抜き

項羽は起きて幕の中で酒を飲み、愛する虞美人と名馬の騅を前に歌った。「力は山を抜き、気は世を蓋う。時利あらず、騅逝かず。騅の逝かざるをいかにすべき。虞や虞や、なんじをいかにせん」。虞美人も唱和し、項羽は涙を流した。周りの者もみな泣いた。

5夜明け前

800騎の脱出

項羽は騅にまたがり、800余りの騎兵を率いて、夜のうちに南へ包囲を破った。夜明けに気づいた漢軍は、灌嬰に5000の騎兵で追わせた。

6結果

垓下の戦いの結果

淮水を渡ったとき、項羽に従う者は100余騎。陰陵で道に迷い、東城では28騎になった。項羽は「兵を挙げて8年、70余りの戦いで一度も負けなかった。今ここで苦しむのは天が我を滅ぼすのであって、戦いの罪ではない」と言って3度敵陣に切り込み、烏江で自ら命を絶った。

勝敗を分けたもの

韓信の采配

正面の韓信が押し戻されると、左右の孔将軍・費将軍が横から攻め、韓信も盛り返した。一人ひとりの武勇では項羽にかなわない漢軍が、兵の数と布陣で勝った。

四面楚歌

夜、漢軍の陣から楚の歌が聞こえてきた。項羽は、楚の民までが漢に降ったと思い、戦う気力を失った。兵の数だけでなく、心理的な包囲が項羽を追いつめた。

孤立した項羽

かつての味方だった英布は漢に寝返り、項羽の軍師だった范増はすでに去っていた。項羽は、人の力を生かしきれなかった王として描かれる。

主な武将とその後

項羽楚軍(項羽)

楚の名将・項燕の孫。秦を倒す戦いで最大の功を立て、西楚の覇王と名のった。烏江のほとりで、渡し守に舟で江東へ逃げるよう勧められたが、「江東の若者8000人と江を渡って西に来たが、今は一人も帰らない。どの面目があって江東の父兄に会えようか」と断り、自ら首をはねた。31歳だった。

劉邦漢と諸侯の連合軍

沛の農民の出身。武勇では項羽に遠く及ばなかったが、張良・蕭何・韓信ら有能な人材を使いこなした。垓下の戦いの後、皇帝に即位し(高祖)、長安を都とする漢を建てた。

虞美人楚軍(項羽)

項羽が愛した女性。項羽の歌に合わせて唱和したと『史記』は伝えるが、その後どうなったかは書かれていない。後世、自ら命を絶ったという話が生まれ、彼女の血から咲いたという「虞美人草(ひなげし)」の伝説も語られるようになった。

韓信漢と諸侯の連合軍

連合軍の主力を率いた。戦後、斉王から楚王に移されたが、やがて謀反の疑いで淮陰侯に落とされ、紀元前196年に処刑された。「狡兎死して走狗烹らる(うさぎが死ねば、猟犬は煮て食われる)」と嘆いたと伝わる。

灌嬰漢と諸侯の連合軍

騎兵を率いた漢の将軍。包囲を破って逃れた項羽を5000騎で追った。

合戦のあと

項羽の死によって、楚漢戦争は終わった。劉邦は紀元前202年2月、定陶で皇帝の位につき、漢王朝を開いた。都ははじめ洛陽に置かれ、のちに長安に移された。

天下を統一した劉邦は、しだいに功臣たちを警戒するようになった。韓信・彭越は謀反の疑いで処刑され、英布は反乱を起こして討たれた。漢はその後、途中の新の時代をはさんで、400年あまり続く長い王朝となる。

諸説と論点

「四面楚歌」は張良の策だったのか

漢軍に降った楚の兵に歌わせたのは張良の策だった、とする話はよく知られるが、『史記』にはそこまでは書かれていない。項羽が聞いた楚の歌が、本当に漢軍の中の楚の人々の歌だったのかも、はっきりしない。

項羽が最期を迎えた場所

『史記』は、項羽が烏江で自ら命を絶ったと書く。一方で、『史記』の別の箇所の記述から、項羽は烏江より手前の東城で死んだのではないかとする説もある。

垓下はどこか

垓下の場所は、現在の安徽省霊璧県のあたりとする説が有力だが、別の場所とする説もある。

関連年表

紀元前206年秦が滅ぶ。項羽が西楚の覇王、劉邦が漢王となる
紀元前205年彭城の戦い。井陘の戦い(背水の陣)
紀元前203年鴻溝を境に和議。項羽が劉邦の父と妻を返す
紀元前202年垓下の戦い(四面楚歌)。項羽が烏江で死ぬ
紀元前202年その2か月後、劉邦が皇帝となる(漢の高祖)
紀元前196年韓信が処刑される
紀元前195年劉邦が亡くなる

両軍の陣容

楚軍(項羽)約10万

部隊兵力その後
項羽総大将10万(兵は少なく食糧は尽きた)討死・壊滅
虞美人と騅
楚軍降伏

漢と諸侯の連合軍約31万

部隊兵力その後
韓信総大将30万
孔将軍
費将軍
劉邦総大将
彭越
英布・劉賈
周勃
灌嬰騎兵5000

決め手

四面楚歌

夜、漢軍の四方から楚の歌が聞こえてきた。項羽は「漢はもう楚を取ったのか。なぜ楚の人がこんなに多いのか」と驚いた。張良の策で、降った楚兵に歌わせたともいう。

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「楚漢戦争 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:司馬遷『史記』項羽本紀・高祖本紀