合戦絵巻 ─ 楚漢戦争 勢力図

鉅鹿の戦い(破釜沈舟)

前207年 / 趙 鉅鹿

前208年 冬

鉅鹿の包囲

1粒=約100人

紀元前207年、趙の鉅鹿(いまの河北省邢台市)で、楚の項羽が秦の大軍を破った。項羽は川を渡ると船を沈め、釜を壊し、3日分の食糧だけを兵に持たせて、生きて帰る道を断った。死にもの狂いの楚軍は9度の戦いで秦軍を破り、項羽は諸侯の上に立つ存在となった。「破釜沈舟」の故事の由来となった戦いである。

上の観戦プレイヤーでは、楚軍(項羽)約2万と秦軍(王離・章邯)約20万と趙と諸侯の援軍約10、あわせて約22万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの5つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

楚軍(項羽)
約2万
秦軍(王離・章邯)
約20万
趙と諸侯の援軍
約10
いつ
前208年 冬 → 戦いの後

なぜ戦ったのか

紀元前221年に中国を統一した秦は、始皇帝の死後たちまち揺らいだ。前209年、陳勝・呉広の乱をきっかけに各地で反乱が起き、滅ぼされた六国の王族や将たちが次々に兵を挙げた。

楚の名将の家に生まれた項羽は、叔父の項梁とともに兵を挙げた。しかし項梁は秦の将・章邯に敗れて戦死した。勢いに乗った章邯の秦軍は北へ向かい、趙王のこもる鉅鹿城を王離の軍に囲ませた。

楚の懐王は宋義を上将軍とし、項羽を副将にして趙の救援に向かわせた。ところが宋義は安陽で46日も進まなかった。項羽は宋義を斬って軍を奪い、鉅鹿へ急いだ。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

1前208年 冬

鉅鹿の包囲

邯鄲を落とした秦軍は、趙王歇と張耳がこもる鉅鹿城を囲んだ。王離の軍が城を囲み、章邯は南の棘原から甬道(両側を壁で守った道)で食糧を送った。救援に来た諸侯の軍は、秦軍を恐れて砦にこもったまま動かなかった。

2前207年 1月

甬道を断つ

安陽で宋義を斬って軍を奪った項羽は、まず英布と蒲将軍に2万の兵をつけて漳水を渡らせた。二人は甬道を襲い、王離の軍への食糧を断った。

3前207年 1月

破釜沈舟

項羽は全軍で漳水を渡ると、船を沈め、釜や甑(こしき)を壊し、宿営を焼いて、3日分の食糧だけを持たせた。生きて帰る道はない、と兵に示したのである。

4前207年 1月

9度の戦い

楚兵は一人で十人に当たる勢いで、ときの声は天を揺るがした。9度の戦いで秦軍を破り、蘇角を討ち、王離を捕らえた。渉間は降伏を拒んで自ら焼け死んだ。

5戦いの後

諸侯が膝をつく

砦の上から戦いを見ていた諸侯の将たちは、震え上がった(壁上観)。項羽に呼ばれると、軍門を膝をついて進み、誰も顔を上げられなかった。項羽は諸侯の上将軍となった。章邯は棘原に退き、半年後に降伏した。

勝敗を分けたもの

退路を断つ

項羽は全軍で漳水を渡ると、船を沈め、釜や甑(こしき)を壊し、宿営を焼いて、3日分の食糧だけを持たせた。勝つほかに生きる道はないと兵に示し、楚兵は一人で十人に当たる勢いで戦った。

補給を断つ

項羽は、まず英布らに兵を与えて、章邯から王離の軍へ食糧を運ぶ甬道(両側を壁で守った道)を襲わせた。補給を断たれた王離の軍は、楚軍の総攻撃に耐えられなかった。

動かない諸侯

趙を救いに来ていた諸侯の軍は、秦軍を恐れて砦にこもり、戦いを見ているだけだった。そのため、勝利の名誉は項羽ひとりのものとなった。

主な武将とその後

項羽楚軍(項羽)

楚の将。このとき25歳ほど。この勝利で諸侯の上将軍となり、のちに「西楚の覇王」を名乗る。

英布楚軍(項羽)

顔に入れ墨の刑を受けた前歴から「黥布」とも呼ばれた勇将。甬道を襲って勝利の道を開いた。のちに劉邦の側につく。

王離秦軍(王離・章邯)

秦の名将・王翦の孫。鉅鹿城を囲んだが、項羽に敗れて捕らえられた。

章邯秦軍(王離・章邯)

秦の将。陳勝の反乱軍や項梁を破ったが、この戦いのあと半年ほどで項羽に降伏した。

合戦のあと

戦いのあと、項羽に呼ばれた諸侯の将たちは、軍門を膝をついて進み、誰も顔を上げられなかったと『史記』は描く。項羽は諸侯の上将軍となった。

章邯は退いたのち、半年ほどで20万の兵とともに項羽に降伏した。ところが項羽は、降った秦兵を信用せず、新安で20万人を穴に埋めて殺したと伝えられる。秦の主力は消え、関中への道は開かれた。

諸説と論点

「破釜沈舟」

退路を断って決死の覚悟で臨むことを「破釜沈舟」という。この話は司馬遷の『史記』の「項羽本紀」によるもので、項羽の英雄ぶりを印象づける名場面として描かれている。

「壁上観」

砦の上から戦いを見ているだけの諸侯の様子から、手出しをせず成り行きを眺めることを「壁上観」という。

関連年表

前221年秦が中国を統一
前210年始皇帝が死去
前209年陳勝・呉広の乱
前208年項梁が章邯に敗れて戦死
前207年鉅鹿の戦い。破釜沈舟
前207年章邯が項羽に降伏
前206年秦の滅亡。鴻門の会

両軍の陣容

楚軍(項羽)約2万

部隊兵力その後
英布・蒲将軍2万
項羽総大将楚の全軍
渡し船沈没
沈没

秦軍(王離・章邯)約20万

部隊兵力その後
王離総大将長城の兵降伏
蘇角討死・壊滅
渉間炎上
章邯総大将20万寝返り

趙と諸侯の援軍約10

部隊兵力その後
鉅鹿城(趙王歇・張耳)総大将
諸侯の援軍10余りの砦傍観

決め手

破釜沈舟

項羽は全軍で漳水を渡ると、船を沈め、釜や甑(こしき)を壊し、宿営を焼いて、3日分の食糧だけを持たせた。生きて帰る道はない、と兵に示したのである。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「楚漢戦争 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:司馬遷『史記』項羽本紀、佐竹靖彦『項羽』(中央公論新社)