1前206年1月
函谷関の怒り
先に関中に入った劉邦は、函谷関を兵で閉ざしていた。怒った項羽は関を破って鴻門に陣を置き、翌朝、劉邦を攻めると決めた。項羽の40万に対し、劉邦は10万。范増は「劉邦の陣の上の気は竜や虎の形で五色に輝いている。天子の気だ」と急がせた。
合戦絵巻 ─ 楚漢戦争 勢力図
前206年1月
紀元前206年、秦の都・咸陽に近い鴻門(いまの陝西省西安市臨潼区)で、楚の項羽が、先に関中に入った劉邦を宴に迎えた。項羽の軍師・范増は宴の席で劉邦を殺そうとしたが、項伯や樊噲にはばまれ、劉邦は厠に立つふりをして逃げ帰った。のちの楚漢戦争の行方を左右した、中国史で最も名高い宴である。
上の観戦プレイヤーでは、沛公(劉邦)約10万と項羽約40万、あわせて約50万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
秦への反乱が広がるなか、楚の懐王は「先に関中(秦の本拠地)に入った者を、関中の王とする」と約束した。項羽が鉅鹿で秦の主力と戦っているあいだに、劉邦は別の道から西へ進み、前207年、秦の最後の王・子嬰の降伏を受けた。
劉邦は咸陽に入ったが、宮殿の財宝には手をつけず、秦の厳しい法を廃して「法は三章のみ」と約束し、民の心をつかんだ。そして函谷関を兵で閉ざし、後から来る諸侯の軍を入れないようにした。
40万の大軍を率いて関に着いた項羽は、関を閉ざされたことに激怒した。関を破って鴻門に陣を置き、翌朝、劉邦の10万の軍を攻めると決めた。
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1前206年1月
先に関中に入った劉邦は、函谷関を兵で閉ざしていた。怒った項羽は関を破って鴻門に陣を置き、翌朝、劉邦を攻めると決めた。項羽の40万に対し、劉邦は10万。范増は「劉邦の陣の上の気は竜や虎の形で五色に輝いている。天子の気だ」と急がせた。
2前夜
項羽の叔父の項伯は、命の恩人の張良を助けようと、夜に馬を走らせて劉邦の陣に来た。張良の引き合わせで、劉邦は項伯と子どもどうしの結婚を約束し、「関を閉ざしたのは盗賊に備えただけ」と項羽へのとりなしを頼んだ。
3翌朝
劉邦は百余騎だけを連れて鴻門を訪れ、項羽にわびた。項羽は機嫌を直し、そのまま宴となった。
4宴
范増は腰の玉を3度持ち上げて項羽に合図したが、項羽は応じなかった。范増は項羽のいとこの項荘に「剣舞をして沛公を斬れ」と命じた。しかし項伯も剣を抜いて舞い、身をもって劉邦をかばった。
5宴
張良から危険を聞いた樊噲は、盾で衛兵を突き倒して幕の中に入り、髪を逆立て、目を見開いて項羽をにらんだ。項羽は「壮士だ」と酒と豚の肩肉を与えた。樊噲は「秦を破った功のある者を殺すのは、滅んだ秦と同じだ」と堂々と述べた。
6宴の後
劉邦は厠に立つふりをして、樊噲ら4人だけを連れ、馬車も置いて、驪山のふもとの抜け道を歩いて逃げた(20里の近道)。張良は残って、項羽に白い璧、范増に玉斗(玉の杯)を贈った。范増は玉斗を剣で打ち砕き、「天下を奪うのは沛公だ。われらはみな捕らわれの身となろう」と嘆いた。
項羽の叔父の項伯は、命の恩人だった張良を救おうと、夜のうちに劉邦の陣へ知らせに来た。劉邦は項伯と子どうしの結婚を約束し、項羽へのとりなしを頼んだ。翌朝、劉邦自身が少ない供だけで謝りに出向いたことで、項羽の怒りは解けた。
范増は項荘に剣舞をさせて劉邦を斬らせようとしたが、項伯も剣を抜いて舞い、劉邦をかばった。そこへ劉邦の家臣の樊噲が乱入し、項羽を堂々といさめた。項羽は樊噲を「壮士」とほめ、劉邦を殺す機会は失われた。
范増は何度も合図を送ったが、項羽は劉邦を殺そうとしなかった。謝りに来た者を殺すのは名誉に反すると考えたとも、劉邦をそれほどの敵と見ていなかったともいわれる。
のちの漢の高祖。命からがら逃げ帰り、項羽から漢中の王に封じられた。4年後、垓下の戦いで項羽を破って天下を統一する。
楚の将。劉邦を見逃したあと咸陽を焼き払い、「西楚の覇王」となって諸侯を王に封じた。
項羽の軍師で、項羽から「亜父(父に次ぐ人)」と呼ばれた。劉邦を逃したことを嘆き、贈られた玉斗を剣で打ち砕いた。のちに項羽に疑われて去り、病で亡くなった。
劉邦の軍師。宴に残って項羽をなだめ、劉邦を逃がした。漢の建国の三傑の一人。
もとは犬の肉を売る商人だった劉邦の同郷の勇士。幕の中に乱入して劉邦を救った。
数日後、項羽は咸陽に入って降伏した子嬰を殺し、宮殿を焼き払った。火は3か月燃え続けたという。項羽は自ら「西楚の覇王」と名乗り、諸侯を各地の王に封じた。
劉邦は、約束の関中ではなく、辺境の巴・蜀・漢中の王とされた。劉邦は不満を抱えながら漢中に入ったが、まもなく関中に打って出て、項羽との4年にわたる楚漢戦争が始まった。
鴻門の会の場面は、司馬遷の『史記』の中でも特に劇的に描かれている。台詞や細かな動きは、のちに劉邦の側の人々が語り伝えたものをもとに、司馬遷が書き上げたものと考えられ、すべてが事実そのままとは限らない。
「あのとき劉邦を殺していれば、項羽は天下を取れた」とよく言われる。しかし、謝罪に来た者を宴の席で殺せば、諸侯の信頼を失った可能性もあり、項羽の判断を一概に誤りとはいえない、という見方もある。
| 前209年 | 陳勝・呉広の乱。劉邦・項羽が兵を挙げる |
|---|---|
| 前207年 | 鉅鹿の戦い |
| 前207年 | 劉邦が関中に入り、秦が降伏 |
| 前206年 | 鴻門の会 |
| 前206年 | 項羽が咸陽を焼く。劉邦が漢王となる |
| 前205年 | 彭城の戦い |
| 前202年 | 垓下の戦い。漢が天下を統一 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 劉邦中心人物 | 百余騎 | |
| 張良 | ||
| 樊噲 | 剣と盾 | |
| 漢軍 | 10万 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 項羽中心人物 | ||
| 范増 | 寝返り | |
| 項伯 | ||
| 項荘 | 剣舞 | 傍観 |
| 楚と諸侯の軍 | 40万 |
決め手
張良から危険を聞いた樊噲は、盾で衛兵を突き倒して幕の中に入り、髪を逆立て、目を見開いて項羽をにらんだ。項羽は「壮士だ」と酒と豚の肩肉を与えた。樊噲は「秦を破った功のある者を殺すのは、滅んだ秦と同じだ」と堂々と述べた。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この事件は「楚漢戦争 勢力図」の中でも、アニメとして見られます。
主な参考:司馬遷『史記』項羽本紀、佐竹靖彦『劉邦』(中央公論新社)