合戦絵巻 ─ 元寇 勢力図

弘安の役

1281年5月〜閏7月 / 博多湾・壱岐・鷹島

6月6日

石築地の壁

1粒=約100人

1281年(弘安4年)、南宋を滅ぼした元は、高麗の兵による東路軍と、旧南宋の兵による江南軍の二手から、ふたたび日本に攻め寄せた。博多湾に現れた東路軍は、海岸に築かれた石築地に阻まれて上陸できず、平戸・鷹島の沖で江南軍と合流したが、閏7月1日の大風で多くの船が沈んだ。

上の観戦プレイヤーでは、兵を1粒=100人、船を1粒=1艘で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

日本の御家人(少弐・大友・島津・河野ら)
約4.3万
東路軍(元・高麗)
約4万・船900艘
江南軍(旧南宋の兵)
約10万・船3500艘
いつ
1281年5月〜閏7月

なぜ戦ったのか

文永の役のあと、元の使いを斬った鎌倉幕府は、博多湾の海岸に約20kmにわたる石の防塁(石築地)を築き、九州の御家人に交代で守らせた。

1279年、元は崖山の戦いで南宋を滅ぼし、中国全土を支配した。南宋の大きな水軍と多くの兵が元のものとなった。クビライは日本遠征のための役所「征東行省」を置き、東路軍(モンゴル・高麗の兵約4万・900艘)と江南軍(旧南宋の兵約10万・3500艘)が、壱岐で落ち合って攻める計画を立てた。

日本では、1279年に来た元の使いもふたたび斬られた。朝廷と寺社は異国降伏の祈りを続け、幕府は九州だけでなく、山陽・南海の御家人にも守りを命じた。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

16月6日

石築地の壁

5月に合浦を出た東路軍は、対馬・壱岐を襲って博多湾に現れた。しかし海岸には石築地が延々と続き、その上に武士たちが待ちかまえていた。東路軍は上陸できず、博多湾の入口の志賀島に船をつないだ。

26月6日〜13日

志賀島の夜襲

日本の武士は、夜に小船で元の大船に漕ぎ寄せて斬りこみ、海の中道からも攻めかかった。伊予の河野通有は、傷を負いながらも元の船に乗り移って戦った。東路軍は船の中で疫病にも苦しんだ。

36月なかば

壱岐へ退く

東路軍は博多湾をあきらめ、壱岐へ退いて、遅れている江南軍を待った。日本軍は壱岐にも攻めかかった。

46月〜7月

江南軍の到着

慶元を出た江南軍の大船団が平戸に着き、東路軍と合流して、鷹島の沖に4400艘の船が並んだ。7月27日には鷹島の近くで日本軍と戦った。

5閏7月1日

大風

夜から大風が吹き荒れ、鷹島の沖に密集していた船は互いにぶつかり合って次々に沈んだ。江南軍の船の多くは急いで造られたもので、川船を使ったものもあったといわれる。

6閏7月7日

鷹島の掃討

将の范文虎らは、残った丈夫な船で逃げ帰った。鷹島に取り残された兵は、日本軍に攻められて討たれたり、捕らえられたりした。

7結果

弘安の役の結果

生きて帰った兵は2割から3割にすぎなかったともいわれる。鷹島の沖の海底からは、元の船の木材や、「てつはう」とみられる焼き物の玉が見つかっている。幕府は勝ったが、守るための戦いで新しい土地は得られず、御家人に恩賞を十分に与えることはできなかった。

勝敗を分けたもの

石築地

博多湾の海岸に延々と続く石の防塁が、東路軍の上陸を許さなかった。元軍は博多湾の入口の志賀島に船をつなぐしかなく、陸に足場を築けなかった。

夜襲と疫病

日本の武士は小船で元の大船に漕ぎ寄せて斬りこみ、元軍を休ませなかった。暑い夏に長く船の上にいた東路軍では、疫病も広がった。

閏7月1日の大風

合流した4400艘の船は鷹島の沖に密集していたため、大風でぶつかり合い、次々に沈んだ。江南軍の船には、急いで造られたものや、川を行き来する船も混じっていたとされる。

主な武将とその後

河野通有日本の御家人(少弐・大友・島津・河野ら)

伊予の水軍を率いる御家人。石築地の前の浜に陣を敷き、元の船に乗り移って戦ったと伝えられる。

少弐経資日本の御家人(少弐・大友・島津・河野ら)

大宰少弐。九州の御家人を指揮した。父の資能はこの戦いで負った傷がもとで亡くなった。

忻都・洪茶丘東路軍(元・高麗)

東路軍の将。洪茶丘は、モンゴルに仕えた高麗人の家の出身だった。

范文虎江南軍(旧南宋の兵)

旧南宋の降将で、江南軍を率いた。大風のあと、丈夫な船を選んで逃げ帰り、のちに罰せられた。

合戦のあと

鷹島に取り残された兵は、閏7月7日に日本軍に攻められて討たれ、また捕らえられた。生きて帰った兵は2割から3割にすぎなかったともいわれる。鷹島の沖の海底からは、元の船の木材や、「てつはう」とみられる焼き物の玉が見つかっている。

クビライは三度目の遠征を命じたが、江南の反乱やベトナムへの遠征が重なって実行できないまま、1294年に亡くなった。日本では、守りの戦いで新しい土地が得られなかったため、御家人に十分な恩賞を与えられず、警固の負担も続いた。幕府への不満は、やがて鎌倉幕府の滅亡(1333年)につながっていく。

諸説と論点

「神風」の物語

大風は、寺社の祈りが通じた「神風」だと考えられ、のちの時代まで「日本は神に守られた国」という考え方を生んだ。しかし実際には、石築地と武士たちが2か月近く上陸を防ぎ続けたことが、大風の前に元軍を追いつめていた。

兵の数

東路軍4万・江南軍10万という数は元の側の記録によるが、実際はもっと少なかったとする研究もある。江南軍が農具を積んでいたことから、日本に移り住むための兵(屯田兵)だったとする説もある。

関連年表

1276年3月博多湾に石築地を築き始める
1279年2月崖山の戦いで南宋が滅ぶ
1281年5月3日東路軍が合浦を出航
1281年6月6日東路軍が博多湾に現れる。志賀島の戦い
1281年6月江南軍が慶元を出航
1281年7月27日東路軍と江南軍が鷹島の沖で合流
1281年閏7月1日大風で多くの船が沈む
1281年閏7月7日鷹島に残った兵を日本軍が討つ
1294年1月クビライが亡くなる

両軍の陣容

日本の御家人(少弐・大友・島津・河野ら)約4.3万

部隊兵力その後
九州の御家人総大将約4万(推定)
河野通有約500(推定)
鷹島の日本軍約3000(推定)

東路軍(元・高麗)約4万・船900艘

部隊兵力その後
東路軍の船団総大将900艘沈没
東路軍(忻都・洪茶丘)約4万逃走

江南軍(旧南宋の兵)約10万・船3500艘

部隊兵力その後
江南軍の船団総大将3500艘沈没
江南軍(范文虎)約10万降伏

決め手

石築地の壁

5月に合浦を出た東路軍は、対馬・壱岐を襲って博多湾に現れた。しかし海岸には石築地が延々と続き、その上に武士たちが待ちかまえていた。東路軍は上陸できず、博多湾の入口の志賀島に船をつないだ。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人(船は1艘)を表します。この合戦は「元寇 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:服部英雄『蒙古襲来』(山川出版社)、新井孝重『蒙古襲来』(吉川弘文館)、池田榮史『海底に眠る蒙古襲来』(吉川弘文館)