110月20日 朝
博多湾を埋める船
対馬・壱岐を襲った元・高麗の船団が博多湾に入り、西の百道原・今津のあたりから上陸した。迎える日本の武士は、少弐景資を大将として博多の町の前に集まった。
合戦絵巻 ─ 元寇 勢力図
10月20日 朝
1274年(文永11年)10月、モンゴル帝国(元)と、元に従う高麗の軍が、900艘の船で対馬・壱岐を襲い、博多湾に上陸した。日本の武士は、集団で戦う元軍と、火薬を使った「てつはう」に苦しめられ、大宰府の水城まで退いた。ところが翌朝、元軍の船団は博多湾から姿を消していた。
上の観戦プレイヤーでは、兵を1粒=100人、船を1粒=1艘で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
チンギス・カンの孫のクビライは、1260年にモンゴル帝国の皇帝となり、30年近く抵抗した高麗を従わせた。1268年、クビライの国書が高麗の使いによって大宰府に届いた。国書は、日本に親しく交わるよう求めながら、「兵を用いることを、だれが好もうか」と結んでいた。
朝廷と幕府は返事を出さないことに決め、18歳の北条時宗が執権となった。その後も元の使いは何度も来たが、日本は応じなかった。幕府は九州の御家人に、沿岸の守り(異国警固番役)を命じた。
このころ元は、長江の南の南宋とも戦っていた。高麗では、モンゴルに従うことを拒んだ三別抄が1273年まで抵抗を続けた。それを鎮めた元は、高麗に900艘の船を造らせ、日本への遠征に踏み切った。
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110月20日 朝
対馬・壱岐を襲った元・高麗の船団が博多湾に入り、西の百道原・今津のあたりから上陸した。迎える日本の武士は、少弐景資を大将として博多の町の前に集まった。
210月20日
肥後の菊池武房の一族が赤坂の元軍に攻めかかって追い払った。元軍は麁原の小高い丘へ退き、陣を固めた。
310月20日
「弓矢の道は、先駆けをもって賞とする」。竹崎季長はわずか5騎で鳥飼潟の元軍に駆け入った。馬を射られ、自らも傷を負ったが、後から来た白石通泰の軍に助けられた。この場面は『蒙古襲来絵詞』に描かれている。
410月20日
元軍は太鼓や銅鑼の合図で集団で動き、短い弓で毒を塗った矢を雨のように射かけた。火薬をつめた「てつはう」の大きな音と煙に、馬は驚いて走り回った。一騎打ちに慣れた武士は苦しめられ、日本軍は押されていった。
510月20日 夕方
少弐景資は、追ってきた元の副将の劉復亨を射落としたと伝えられる。元軍は日暮れとともに船に引き上げたが、博多の町と箱崎宮は焼かれ、日本軍は大宰府の水城まで退いた。
610月21日 朝
夜が明けると、博多湾を埋めていた元・高麗の船は姿を消していた。船団は合浦へ引き上げる途中で荒れた海に遭い、多くの船と兵を失ったという。
7結果
元軍が1日で引き上げた理由ははっきりしない。帰らなかった者は1万3500人余りにのぼったと『高麗史』は伝える。幕府は博多湾に石築地を築き、九州の守りを固めて次の襲来に備えた。
日本の武士は、名のりを上げて一騎ずつ戦うことを誉れとしていた。元軍は、太鼓や銅鑼の合図で集団で動き、短い弓で矢を雨のように射かけた。この違いが、日本軍を苦しめたといわれる。
元軍は、火薬をつめた陶器の玉「てつはう」を使った。大きな音と煙、飛び散るかけらに、馬は驚き、武士たちはとまどった。『蒙古襲来絵詞』には、空中で炸裂するてつはうが描かれている。
元軍は日本軍を押し返したのに、その夜のうちに船に戻り、翌朝には姿を消した。将の劉復亨が射られて傷を負ったこと、矢が尽きたこと、将の間で意見が分かれたことなどが理由とされるが、はっきりしない。
大宰少弐の少弐資能の子で、博多の日本軍の指揮をとった。元の副将の劉復亨を射落としたと伝えられる。1285年の霜月騒動のあと、兄の経資と争って討たれた。
肥後の御家人。わずか5騎で先駆けしたが、恩賞をもらえず、翌年鎌倉に行って安達泰盛に直接訴えた。自分の戦いを『蒙古襲来絵詞』に描かせ、後世に伝えた。
肥後の菊池氏の当主。赤坂の元軍を追い払った。弘安の役でも石築地を守って戦った。
元軍の総大将。弘安の役でも東路軍を率いた。
高麗軍の将。三別抄を討ち、文永・弘安の役で高麗の兵を率いた。
11月27日、元・高麗の軍は合浦に戻った。帰らなかった者は1万3500人余りにのぼったと『高麗史』は伝える。対馬・壱岐と肥前の沿岸の人々も、大きな被害を受けた。
クビライはなおも日本を従わせようと、1275年に杜世忠らを使いとして送った。北条時宗は、5人を鎌倉の竜ノ口で斬らせた。幕府は1276年、博多湾の今津から香椎まで約20kmの海岸に、石の防塁(石築地)を築かせ、次の襲来に備えた。これが7年後の弘安の役で役に立つ。
元軍が引き上げたのは嵐のためだという話が広く知られている。しかし、文永の役は旧暦10月20日(いまの11月末)で台風の季節ではなく、同時代の日本の記録にも嵐ははっきり書かれていない。帰りの海で荒天に遭ったとする『高麗史』の記事などをめぐって、今も議論がある。
元軍の目的は、日本を征服することではなく、力を見せて服属を迫ることだったとする説がある。一方で、日本軍の抵抗が予想以上に強かったため、引き上げたとする見方もある。
| 1268年1月 | モンゴルの国書が大宰府に届く |
|---|---|
| 1268年3月 | 北条時宗が執権となる |
| 1273年4月 | 三別抄が滅ぶ |
| 1274年10月5日 | 元・高麗の軍が対馬に上陸 |
| 1274年10月14日 | 壱岐が襲われる |
| 1274年10月20日 | 博多湾に上陸。赤坂・鳥飼で戦う |
| 1274年10月21日 | 元の船団が博多湾から消える |
| 1275年9月 | 元の使い杜世忠を竜ノ口で斬る |
| 1276年3月 | 博多湾に石築地を築き始める |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 少弐景資総大将 | 約5000(推定) | |
| 菊池武房 | 約500(推定) | |
| 竹崎季長 | 5騎 | 敗走 |
| 大友頼泰 | 約2000(推定) |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 元・高麗の船団総大将 | 900艘 | 逃走 |
| 元軍(忻都)総大将 | 約2万 | 逃走 |
| 高麗軍(金方慶) | 約6000 | 逃走 |
| てつはう・弓の兵 | 逃走 |
決め手
元軍は太鼓や銅鑼の合図で集団で動き、短い弓で毒を塗った矢を雨のように射かけた。火薬をつめた「てつはう」の大きな音と煙に、馬は驚いて走り回った。一騎打ちに慣れた武士は苦しめられ、日本軍は押されていった。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人(船は1艘)を表します。この合戦は「元寇 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:服部英雄『蒙古襲来』(山川出版社)、新井孝重『蒙古襲来』(吉川弘文館)、『蒙古襲来絵詞』(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)