今の九度山町
紀の川の南岸、高野山へ向かう道の入口にある町です。紀の川と丹生川に挟まれた段丘に中心街が広がり、周囲には果樹園と山間の集落が続きます。慈尊院や丹生官省符神社、高野山町石道は世界遺産に登録され、参詣の歴史を伝えています。真田昌幸・幸村父子ゆかりの歴史も伝わっています。富有柿の産地で、丹生川沿いには玉川峡などの渓谷の風景が広がります。
今の九度山町の区域の人口は、2020年の国勢調査で3,856人です。今の区域で数えた1980年の7,693人とくらべると49.9%減り、人口は1980年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は46.5%です。
主な産業:富有柿などの果樹栽培を中心に、歴史や自然を生かす観光が営まれています。
特産品・名産
- 富有柿町を代表する甘柿
- 柿加工品富有柿などを使ったお茶や菓子
- 真田紐丈夫で伸びにくい伝統の織り紐
見どころ・祭り
- 慈尊院女人高野と呼ばれる世界遺産の寺院
- 丹生官省符神社町石道の登山口にある世界遺産の神社
- 高野参詣道町石道慈尊院から高野山へ続く参詣道
- 玉川峡奇石や滝がつくる県指定名勝の渓谷
木柿花ボタン九度山町の木・花
九度山町のなりたち
九度山町(くどやまちょう)は、和歌山県紀北地域の町です。今の町の区域には、1920年(大正9年)の時点で、2の町村がありました。河根村・九度山町です。これらの町村が、1回の合併や編入を経て、今の九度山町になりました。
今の名前「九度山町」は、1920年にあった九度山町の名前を受け継いでいます。ほかの1の町村の名前は、自治体の名前としては消えましたが、地区の名前や学校、駅などに残っていることが少なくありません。
面積は、1920年の九度山町が約21km²だったのに対し、今の九度山町は約43km²と、およそ2.1倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は伊都郡に属していました。
「九度山町」という名前
九度山という名には、弘法大師空海が高野山から慈尊院の母に会うため、月に九度訪れたことにちなむという説があります。高野山が女人禁制だったため、母は山上へ向かわず、ふもとの慈尊院で暮らしたと伝えられています。九度山は慈尊院から高野山へ登る道の入口にあたり、町の名前にも、高野山と山麓を結ぶ歴史が重なっています。
まちの成り立ち
九度山は、紀の川の南岸から高野山へ向かう参詣の入口として歩んできた町です。空海の高野山開創に関わる慈尊院には、高野山の寺領を支配する拠点が置かれました。町石道や東高野街道が通り、参詣者の宿場、山上へ送る物資の集まる場所として栄えました。
1910年9月1日、伊都郡九度山村が町制を施行し、九度山町となりました。1955年3月31日には、旧九度山町と同郡の河根村が新設合併し、現在につながる九度山町が発足しました。町の中心部だけでなく、丹生川沿いや山間の集落も、一つの町として歩むようになりました。
大正末期に南海電鉄高野線が開通すると、地域の暮らしは大きく変わりました。山林業や織物業とともに、柿やみかんなどの果樹栽培が営まれ、富有柿は町を代表する産物となりました。真田昌幸・幸村父子が暮らした地としても知られ、
2004年7月、慈尊院・丹生官省符神社・高野山町石道が、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されました。古い参詣道と社寺、川沿いの景観や果樹園が、高野山とともに歩んできた町の歴史を伝えています。
年表
- 1910年9月1日明治43年伊都郡九度山村が町制を施行し、九度山町となった。種類:町制施行 出典:www.town.kudoyama.lg.jp
- 1955年3月31日昭和30年伊都郡の九度山町・河根村が合併し、新しい九度山町が生まれた。種類:新設合併 出典:www.town.kudoyama.lg.jp
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。
参考にした資料
- www.kudoyama-kanko.jp/midokoro/spot04.html
- www.town.kudoyama.lg.jp/kyouiku/enkaku.html
- www.town.kudoyama.lg.jp/soumu/files/kanrkeikaku_honpen.pdf
- www.town.kudoyama.lg.jp/soumu/70th-Anniversary/
- www.town.kudoyama.lg.jp/soumu/70th-Anniversary/files/yoran_8-11.pdf
- www.town.kudoyama.lg.jp/kikaku/seisaku/kudoyama_syoukai.html