今の四條畷市
大阪府の北東部、生駒山地の北部に位置する市です。西側には忍ケ丘駅周辺などの市街地が広がり、山地の東側には田原地域があります。山あいには室池があり、緑の文化園の散策路が続きます。楠正行にゆかりのある四條畷神社や小楠公墓所が残り、地域の歴史を伝えています。住宅地の暮らしに加え、金網づくりや米作りなどの産業も受け継がれています。
今の四條畷市の区域の人口は、2020年の国勢調査で55,177人です。今の区域で数えた1980年の50,582人とくらべると9.1%ふえ、人口は2010年まではふえ、その後は少し減っています。65歳以上の人の割合は27.7%です。
主な産業:住宅地と商業地が広がり、金網製造や稲作も営まれています。
特産品・名産
- 金網地域の製造業を代表する製品
- 米市内で栽培される農産物
- 楠公の里くるみをのせた黄身餡の焼き菓子
見どころ・祭り
- 四條畷神社楠正行らをまつる神社
- 小楠公墓所楠正行の墓とくすの木が残る
- 室池・緑の文化園山あいの池と森林の散策地
- 田原城跡田原地域に残る城跡
木くすのき花さつき四條畷市の木・花
四條畷市のなりたち
四條畷市(しじようなわてし)は、大阪府北河内地域の市です。今の市の区域には、1920年(大正9年)の時点で、2の町村がありました。田原村・甲可村です。これらの町村が、1回の合併や編入を経て、今の四條畷市になりました。
今の名前「四條畷市」は、1920年にあったどの町村の名前とも違い、合併のときに新しくつけられた名前です。もとの2の町村の名前は、自治体の名前としてはすべて消えました。
面積は、1920年の甲可村が約10km²だったのに対し、今の四條畷市は約18km²と、およそ1.8倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は北河内郡に属していました。郡は今は住所の表し方などに残るだけの区分ですが、町村がすべて市に入ったり合併したりして、北河内郡は1971年(昭和46年)11月3日に廃止されました。
「四條畷市」という名前
「四條畷」は、南北朝時代の戦いの舞台となった四条縄手にちなむとする説があります。楠正行らをまつる四條畷神社は1890年に創建されました。その名が広まると、鉄道駅や学校、郵便局などにも四條畷の名が使われるようになりました。こうした施設のあった甲可村は、1932年に四條畷村へ改称しました。村から町、そして市へと変わる間も、この名を受け継いでいます。
まちの成り立ち
1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行により、今の市域に讃良郡甲可村と田原村が発足しました。1896年には讃良郡・茨田郡・交野郡を合わせた北河内郡が生まれ、両村もその所属となりました。甲可村では、1890年に四條畷神社が創建されました。その後、四條畷の名を冠する鉄道駅や学校などが設けられ、地域の呼び名として広まっていきました。1932年(昭和7年)4月1日に甲可村は四條畷村へ改称し、1947年(昭和22年)7月1日には町制を施行して四條畷町となりました。生駒山地の東側にある田原村は、1961年(昭和36年)6月25日に四條畷町へ編入されました。西側の平野と東側の田原地域が、一つの町にまとまりました。1970年(昭和45年)7月1日には市制を施行し、四條畷市が発足しました。現在の市内には、小楠公墓所や四條畷神社など、楠正行にゆかりのある史跡が残っています。室池や緑の文化園、田原城跡などもあり、平野部から山地の東側まで、それぞれの地域の歴史と自然が受け継がれています。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、讃良郡に甲可村・田原村が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1896年4月1日明治29年茨田郡・交野郡・讃良郡の区域に北河内郡が発足し、各町村が同郡に属した。種類:郡の変更 出典:Wikipedia
- 1932年4月1日昭和7年北河内郡甲可村が改称し、四條畷村となった。種類:改称 出典:Wikipedia
- 1947年7月1日昭和22年北河内郡四條畷村が町制を施行し、四條畷町となった。種類:町制施行 出典:Wikipedia
- 1961年6月25日昭和36年北河内郡田原村が四條畷町に編入された。種類:編入 出典:www.masse.or.jp
- 1970年7月1日昭和45年北河内郡四條畷町が市制を施行し、四條畷市となった。種類:市制施行 出典:www.masse.or.jp
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。