運命の分かれ目
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1584年10月18歳
18歳で伊達家を継ぐ
父の輝宗から家督をゆずられた。翌年、父が二本松城主の畠山義継に連れ去られ、追った政宗の軍の前で、父は義継とともに亡くなった。この事件のあと、政宗は周りの大名と激しく争うようになる。
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1589年6月23歳
摺上原の戦い
会津の蘆名氏を磐梯山のふもとの摺上原で破り、会津を手に入れた。本拠を黒川城(のちの会津若松城)に移し、南奥州のほとんどを支配した。しかし秀吉は、大名どうしの戦いを禁じていた(惣無事)。
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1590年6月24歳
小田原に遅れて参陣
秀吉が小田原の北条氏を囲むと、迷った末に遅れて小田原に参じた。死に装束で現れたと伝わる。命は許されたが、会津は取り上げられた。翌年、一揆をあおった疑いもかけられ、米沢から岩出山に移された。
朝鮮出兵では、きらびやかな装いの行列で京の人々を驚かせた。秀吉の死後は、家康に近づいた。
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1600年9月34歳
関ヶ原のころの「百万石のお墨付き」
家康は政宗に、味方すれば旧領を合わせて100万石にするという書状を与えた。政宗は上杉と戦ったが、ひそかに一揆をあおったことが知られ、約束はほとんど果たされなかった。仙台に新しい城を築き、62万石の大名として落ち着いた。
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1613年9月47歳
支倉常長をローマへ送る
家臣の支倉常長らを、自ら造らせた船でメキシコ・スペインを経てローマへ送った(慶長遣欧使節)。メキシコとの貿易を開くのがねらいだったが、幕府がキリスト教を禁じたこともあって実を結ばなかった。政宗は3代将軍家光の時代まで生き、1636年に70歳で亡くなった。
年齢は、地図の人物欄と同じ数え年です。
居城の移り変わり
- 1
米沢城
1567年〜1589年(1〜23歳)生まれた城。伊達家の本拠。
- 2
黒川城
1589年〜1590年(23〜24歳)蘆名氏から奪った会津の城。1年あまりで秀吉に取り上げられた。
- 3
岩出山城
1591年〜1601年(25〜35歳)秀吉の命で移された城。
- 4
仙台城
1601年〜1636年(35〜70歳)青葉山に築いた、仙台藩62万石の城。
地図は1589年の勢力図に、居城の位置を重ねたものです。濃い色が伊達氏の勢力です。
通説と実像
よく知られた話は、どこまで本当なのか。史料にあるもの、後世に作られたもの、説が分かれるものに分けました。
史料にある
幼いころ、片目を失った
幼いころの疱瘡(天然痘)で右目の光を失ったとされる。「独眼竜」の呼び名は、江戸時代後期の頼山陽の詩などから広まった。
諸説
小田原に、死に装束(白装束)で現れた
伊達家の記録などに見える話で、秀吉に許されるための演出だったとされる。ほかの確かな史料では確かめにくい。
諸説
「伊達者」という言葉は政宗から
朝鮮出兵のとき、伊達の軍のきらびやかな装いが評判になり、「伊達者(おしゃれな人)」の語源になったという説がある。言葉はもっと前からあったとする見方もある。
史料にある
家康から「百万石のお墨付き」をもらった
関ヶ原の戦いの前、家康が政宗に、旧領の7郡を与えると約束した書状が伊達家に伝わる。合わせて100万石になることから、こう呼ばれる。
数字で見る政宗
広さは、この地図の地域区分から計算した目安です。
つながり
主役のバトン
同じ時代、世界では
政宗が生まれたころの世界
- 1571年ヨーロッパレパントの海戦
略年譜(戦国勢力図の出来事から)
参考
- 小林清治『伊達政宗』(吉川弘文館 人物叢書)