合戦絵巻 ─ 北宋と遼・金 勢力図

郾城・潁昌の戦い岳家軍

1140年7月(紹興10年) / 許州 郾城・潁昌

1140年7月8日

宗弼の精鋭

1粒=約100人

1140年(南宋の紹興10年)7月、河南の郾城と潁昌(いまの河南省漯河市・許昌市)で、南宋の岳飛の軍が、金の宗弼の精鋭騎兵を破った。岳飛は歩兵に大きな刀や斧を持たせ、馬の脚を狙わせて、重装騎兵を崩したという。開封の奪回を目前にしながら、岳飛は朝廷の命令で撤退させられ、翌年、無実の罪で殺された。

上の観戦プレイヤーでは、岳家軍(岳飛)—と金軍(宗弼)—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

岳家軍(岳飛)
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金軍(宗弼)
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いつ
1140年7月8日 → 結果

なぜ戦ったのか

1127年に北宋が滅んだあと、南宋は江南に都を置いて金と戦い続けた。南宋の朝廷では、金と戦って北の領土を取り戻そうとする人々と、和議を結んで国を守ろうとする宰相の秦檜らが対立していた。

1139年、南宋と金はいったん和議を結び、金は河南の地を南宋に返した。ところが翌1140年、金では和議に反対する宗弼が実権を握り、和議を破って再び河南に攻めこんだ。

岳飛は、規律の厳しい軍「岳家軍」を率いて北へ進み、河南の各地で金軍を破った。宗弼は、岳飛の本隊が郾城にいることを知り、精鋭の騎兵で襲いかかった。

合戦の経過

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11140年7月8日

宗弼の精鋭

宗弼は、岳飛の本隊が郾城にいることを知り、精鋭の騎兵1万5000で襲いかかった。中央には、人も馬も鎧で固めた重装騎兵「鉄浮図」、両翼には素早い騎兵「拐子馬」がいた。

21140年7月8日

馬の脚を狙え

岳飛は、歩兵に麻札刀や大斧を持たせて敵陣に入り込ませ、上を見ずに馬の脚だけを斬らせた。一頭が倒れると、つながった騎兵が動けなくなったという。

31140年7月8日

背嵬軍の突撃

岳飛の親衛騎兵「背嵬軍」と子の岳雲が突撃し、日暮れまでの激戦で金軍を破った。宗弼は「海上(挙兵)以来、この騎兵で負けたことはなかったのに」と泣いたという。

41140年7月14日

潁昌の戦い

宗弼は兵を集め直して潁昌を攻めたが、岳雲らに再び敗れた。金軍の間では「山を動かすのはたやすいが、岳家軍を動かすのは難しい」と言われた。

51140年7月

撤退の命令

岳飛は朱仙鎮まで進み、河北の義兵とも連絡を取って開封の奪回を目前にした。しかし和議を進める朝廷から、金字の札(金牌)が次々に届き、撤退を命じられた。

6結果

郾城・潁昌の戦いの結果

岳飛は北伐の成果を捨てて撤退し、河南は再び金のものとなった。翌年、和議を結んだ南宋の朝廷は岳飛を殺した。岳飛の戦いの記録には、後世に誇張されたものも含まれるとされるが、郾城・潁昌の勝利は南宋軍の強さを示した。

勝敗を分けたもの

馬の脚を狙う

金軍の中央には、人も馬も鎧で固めた重装騎兵「鉄浮図」がいた。岳飛は歩兵に麻札刀や大斧を持たせて敵陣に入りこませ、上を見ずに馬の脚だけを斬らせたという。

親衛騎兵の突撃

岳飛の親衛騎兵「背嵬軍」と、子の岳雲が突撃し、日暮れまでの激戦で金軍を破った。数日後の潁昌の戦いでも、岳雲らが再び金軍を破った。

規律の厳しい軍

岳家軍は「凍え死んでも民家を壊さず、飢え死にしても略奪しない」という厳しい規律で知られた。民に支持され、河北の義兵とも連絡を取って、北の人々の期待を集めた。

主な武将とその後

岳飛岳家軍(岳飛)

南宋の将。背中に「尽忠報国」の入れ墨があったと伝わる。北伐の途中で撤退を命じられ、翌年、秦檜らによって謀反の罪をきせられ、39歳で殺された。のちに名誉を回復し、救国の英雄として広く敬われた。

岳雲岳家軍(岳飛)

岳飛の養子。勇猛で、郾城・潁昌の戦いで活躍した。父とともに殺された。

宗弼(兀朮)金軍(宗弼)

金の名将。郾城の敗戦で「この騎兵で負けたことはなかったのに」と泣いたと伝わる。のちに南宋との和議をまとめた。

合戦のあと

岳飛は朱仙鎮まで進み、開封の奪回を目前にした。しかし和議を進める朝廷から、撤退を命じる金字の札(金牌)が一日に12枚も届いたという。岳飛は北伐の成果を捨てて撤退し、河南は再び金のものとなった。

1141年、南宋は金と和議を結び(紹興の和議、翌年成立)、淮河を国境とし、金に臣下の礼をとって毎年銀と絹を贈ることになった。その間に、岳飛は無実の罪で殺された。杭州の西湖のほとりの岳王廟には、今もひざまずく秦檜夫妻の像が置かれている。

諸説と論点

戦果の誇張

岳飛の戦いの記録の多くは、のちに孫の岳珂がまとめたもので、祖父をたたえるための誇張も含まれるとされる。それでも、郾城・潁昌の勝利が、南宋の軍の強さを示したことは確かと考えられている。

撤退は誤りだったのか

岳飛がそのまま進めば開封を取り戻せた、という見方は根強い。一方で、ほかの軍が先に退いていたため、岳飛の軍だけでは孤立するおそれがあり、撤退はやむをえなかったとする見方もある。

関連年表

1127年靖康の変。南宋が始まる
1130年黄天蕩の戦い
1139年南宋と金が和議を結ぶ
1140年金が和議を破り、河南に攻めこむ
1140年7月郾城・潁昌の戦い
1142年1月岳飛が殺される
1142年紹興の和議が成立

両軍の陣容

岳家軍(岳飛)—

部隊兵力その後
岳飛総大将背嵬軍(親衛の騎兵)逃走
麻札刀・大斧の歩兵
岳雲勝利

金軍(宗弼)—

部隊兵力その後
宗弼(兀朮)総大将
鉄浮図(重装騎兵)敗走
拐子馬(左翼の騎兵)敗走
拐子馬(右翼の騎兵)敗走

決め手

馬の脚を狙え

岳飛は、歩兵に麻札刀や大斧を持たせて敵陣に入り込ませ、上を見ずに馬の脚だけを斬らせた。一頭が倒れると、つながった騎兵が動けなくなったという。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「北宋と遼・金 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『宋史』岳飛伝、『金史』