11130年3月
待ち受ける韓世忠
江南で略奪を重ねた宗弼は、鎮江から長江を渡って北へ帰ろうとした。韓世忠はわずか8000の水軍で金山のそばに陣取り、行く手をふさいだ。
合戦絵巻 ─ 北宋と遼・金 勢力図
1130年3月
1130年(南宋の建炎4年)3月から4月にかけて、長江下流の鎮江(いまの江蘇省)近くの黄天蕩で、南宋の韓世忠が、わずか8000の水軍で、江南を荒らした金の宗弼(兀朮)の大軍を48日間も封じこめた。最後は風のない日に火矢で反撃されて金軍に逃げられたが、この戦いは南宋の人々を大いに勇気づけた。
上の観戦プレイヤーでは、宋の水軍(韓世忠)約8,000と金軍(宗弼)約10万、あわせて約11万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
1127年、北宋は金に都の開封を落とされ、皇帝の徽宗・欽宗が北へ連れ去られて滅んだ(靖康の変)。皇族の趙構(高宗)が南で即位し、南宋が始まった。
金は高宗を追って南へ攻めこみ、1129年、宗弼の率いる軍が長江を渡って江南に入った。高宗は船で海へ逃れ、金軍は杭州などで略奪を重ねた。
1130年春、宗弼は奪った財宝を船に積んで、長江を渡って北へ帰ろうとした。長江のほとりでそれを待ち受けたのが、韓世忠の水軍だった。
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11130年3月
江南で略奪を重ねた宗弼は、鎮江から長江を渡って北へ帰ろうとした。韓世忠はわずか8000の水軍で金山のそばに陣取り、行く手をふさいだ。
21130年3月
宋の大船は、小さな金の船を上から押しつぶすように攻めた。韓世忠の妻・梁紅玉は、自ら太鼓を打って兵を励ましたと伝えられる。
31130年4月
金軍は長江をさかのぼって逃げようとしたが、宋の水軍に追われ、行き止まりの入り江・黄天蕩に入ってしまった。韓世忠は入り口をふさぎ、48日間にわたって閉じ込めた。宗弼は「略奪品をすべて返すから通してほしい」と申し出たが、断られた。
41130年4月
宗弼は、土地の者に教わった古い水路を一晩で掘り広げ、建康へ向けて抜け出そうとした。
51130年4月
宗弼は、宋の大船が帆に風を受けないと動けないことを知った。風のやんだ日、金軍は小船で近づき、火矢を射かけて宋の大船を焼いた。韓世忠の水軍は大きな被害を受け、宗弼は長江を渡って北へ逃れた。
6結果
宗弼を討ち取ることはできなかったが、8000の兵で10万と号する金軍を48日間も封じ込めたこの戦いは、南宋の人々を大いに励ました。金はこの後、長江を渡って江南に攻め込むことはなくなった。
北から来た金軍は、馬に乗っての戦いは得意でも、船での戦いには慣れていなかった。韓世忠の大きな船は、金の小さな船を上から押しつぶすように攻め、渡河を許さなかった。
金軍は長江をさかのぼって逃げようとしたが、行き止まりの入り江・黄天蕩に追いこまれた。韓世忠は入り口をふさぎ、48日間にわたって閉じこめた。
宗弼は、宋の大船が帆に風を受けないと動けないことに気づいた。風のやんだ日、金軍は小船で近づき、火矢を射かけて宋の大船を焼いた。韓世忠の水軍は大きな被害を受け、宗弼は北へ逃れた。
南宋の将。岳飛と並ぶ名将として知られる。のちに和議を進める秦檜に反対し、岳飛が殺されると、引退して世を去るまで政治に関わらなかった。
韓世忠の妻。黄天蕩の戦いで自ら太鼓を打って兵を励ましたと伝えられ、中国では女傑の代表として芝居などで親しまれている。
金の太祖・阿骨打の子。南宋への攻撃を指揮した金の名将。のちに岳飛と戦い、南宋との和議をまとめる。
宗弼を討ち取ることはできなかったが、8000の兵で大軍を48日間も封じこめたこの戦いは、敗戦続きだった南宋の人々を大いに励ました。
金はこの後、長江を渡って江南に深く攻めこむことはなくなり、南宋は江南に腰を据えることができた。やがて金と南宋の戦いは、淮河のあたりを境に続いていく。
最後は火攻めで大きな被害を受け、宗弼を逃がしたため、戦術としては南宋の敗北ともいえる。しかし、少ない兵で大軍を長く足止めし、金に長江を渡ることの難しさを思い知らせた点では、大きな意味を持つ戦いだった。
梁紅玉が太鼓を打った話は、のちの記録や芝居で大きく広まったもので、どこまで事実かははっきりしない。
| 1127年 | 靖康の変。北宋が滅び、南宋が始まる |
|---|---|
| 1129年 | 宗弼の金軍が長江を渡り、江南を攻める |
| 1130年3月〜4月 | 黄天蕩の戦い |
| 1138年 | 南宋が臨安(杭州)を都とする |
| 1140年 | 郾城・潁昌の戦い |
| 1142年 | 紹興の和議 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 韓世忠総大将 | 水軍8000 | |
| 宋の大船 | 炎上 | |
| 宋の大船 | 炎上 | |
| 梁紅玉の太鼓 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 宗弼(兀朮)総大将 | 10万と号す | |
| 金の小船 | 略奪品を積む | |
| 金の小船 | 沈没 |
決め手
宗弼は、宋の大船が帆に風を受けないと動けないことを知った。風のやんだ日、金軍は小船で近づき、火矢を射かけて宋の大船を焼いた。韓世忠の水軍は大きな被害を受け、宗弼は長江を渡って北へ逃れた。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「北宋と遼・金 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『宋史』韓世忠伝、『金史』