合戦絵巻 ─ 北宋と遼・金 勢力図

開封の陥落(靖康の変)

1126年11月〜閏11月(靖康元年) / 開封

1126年11月

二度目の包囲

1粒=約100人

1126年(靖康元年)閏11月、北方の女真族が建てた金の軍が、北宋の都・開封を攻め落とした。翌年、上皇の徽宗と皇帝の欽宗をはじめ、皇族や官僚など1万人以上が北へ連れ去られ、北宋は滅んだ。この年の年号から「靖康の変」と呼ばれ、宋の人々にとって長く「国の恥」として語り継がれた。

上の観戦プレイヤーでは、金軍(宗望・宗翰)—と宋軍(欽宗)約7,777の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

金軍(宗望・宗翰)
—
宋軍(欽宗)
約7,777
いつ
1126年11月 → 結果

なぜ戦ったのか

北宋は、北方の契丹族の国・遼に毎年多くの銀や絹を贈ることで平和を保っていた。12世紀の初め、遼に支配されていた女真族が完顔阿骨打のもとで立ち上がり、1115年に金を建てて、遼を次々に破った。

宋はこれを好機と見て、1120年ごろ、金と「海上の盟」を結んで遼を挟み撃ちにし、かつて遼に奪われた燕雲十六州を取り戻そうとした。しかし宋の軍は遼に負け続け、燕京(いまの北京)も金の力で落としてもらったうえ、多額の代価を払って引き渡しを受けた。宋の軍の弱さは、金に見透かされた。

さらに宋は、金に降った遼の将を裏で受け入れるなど約束に反する行いを重ね、1125年に遼が滅ぶと、金は宋へ兵を向けた。芸術を愛した徽宗は、慌てて子の欽宗に位を譲った。1126年の初め、金軍は一度開封を囲んだが、宰相の李綱らの守りと、黄河の北の3つの鎮を譲る約束などで和議が結ばれ、金軍は引き上げた。

ところが宋は、その約束を守らず、再び金と戦う道を選んだ。1126年の秋、金は東と西の二手から攻め込み、西路軍は8か月以上持ちこたえた太原を落として南下した。11月、二つの軍は開封で合流し、城を囲んだ。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

11126年11月

二度目の包囲

宋は3鎮の割譲の約束を守らず、金は再び攻め込んだ。東路の宗望と、太原を落とした西路の宗翰が開封で合流し、城を囲んだ。宋の朝廷では和議か抗戦かで議論がまとまらず、各地の援軍もほとんど来なかった。

2閏11月

大雪と攻城戦

大雪の中、金軍は投石機や攻城用のやぐらで城壁を攻めた。城内の兵と住民は必死に守ったが、寒さと飢えに苦しんだ。

3閏11月25日

六甲神兵

朝廷は、6と甲の日に生まれた7777人を集めれば術で金軍を倒せるという郭京の言葉を信じ、宣化門を開けて「六甲神兵」を出撃させた。神兵はたちまち金軍に打ち破られ、郭京は逃げた。

4閏11月25日

城壁が破られる

開いた門から金軍がなだれ込み、城壁を奪った。城内では略奪と混乱が広がった。

51126年12月〜1127年4月

欽宗の降伏と二帝の連行

欽宗は金の陣に出向いて降伏した。金は莫大な金銀を要求し、翌年4月、徽宗・欽宗と皇族・官僚1万人以上を北へ連れ去った。

6結果

開封の陥落の結果

北宋はここに滅んだ。この年の年号から「靖康の変」(靖康の恥)と呼ばれる。宋にとって最大の屈辱とされ、のちに岳飛は「靖康の恥、なお雪がず」と詞に詠んだと伝えられる。

勝敗を分けたもの

決められなかった朝廷

宋の朝廷では、和議か抗戦かで議論がまとまらず、方針が何度も変わった。抗戦を主張した李綱は遠ざけられ、各地の援軍も十分に集まらないまま、都は二度目の包囲を受けた。

「六甲神兵」

追いつめられた朝廷は、六甲の法術で金軍を倒せるという郭京という男の言葉を信じ、7777人の「神兵」を集めて城門を開き、出撃させた。神兵はたちまち打ち破られ、開いた門から金軍が城壁に上った。

騎兵の国と、城に頼る国

金軍は機動力のある騎兵を中心に、遼や漢人から学んだ攻城の技術も身につけていた。宋は大軍を抱えていたが、兵の質は低く、指揮する者も戦いに慣れていなかった。

主な武将とその後

徽宗宋軍(欽宗)

北宋の第8代皇帝。「痩金体」と呼ばれる独特の書や、花や鳥を描いた絵に優れた芸術家皇帝として名高い。一方で、庭園に飾る珍しい石や木を各地から集めさせる「花石綱」などで民を苦しめた。北へ連れ去られ、1135年、五国城で亡くなった。

欽宗宋軍(欽宗)

徽宗の子で、北宋の最後の皇帝。在位わずか1年あまりで金の陣に降り、父とともに北へ連れ去られた。1156年ごろ、捕らわれの身のまま亡くなった。

宗望(斡離不)金軍(宗望・宗翰)

金の太祖・阿骨打の子で、東路軍を率いた。一度目・二度目の開封包囲の中心となった。

宗翰(粘罕)金軍(宗望・宗翰)

金の西路軍を率いた将軍。太原を落として開封に迫った。のちに金の朝廷で大きな力を持った。

李綱宋軍(欽宗)

宋の宰相。一度目の包囲では開封を守り抜いたが、和議を進める勢力に退けられた。南宋でも一時宰相となり、金への抗戦を説き続けた。

合戦のあと

金は、宋の旧臣の張邦昌を「楚」の皇帝に立てて華北を治めさせようとしたが、長続きしなかった。一方、連れ去られずに済んだ徽宗の子・康王趙構は、1127年5月に南京応天府で即位した(高宗)。宋は都を南へ移して、臨安(いまの杭州)を事実上の都とし、以後の宋を南宋と呼ぶ。

南宋では、岳飛らの将軍が金と戦って華北の奪回を目指したが、朝廷は宰相の秦檜のもとで和平を選び、1141年、淮河を境とする和議を結んだ(紹興の和議)。岳飛は翌年、無実の罪で殺された。南宋は金に臣下の礼をとる屈辱的な立場に甘んじながら、江南の豊かな経済を背景に、1279年にモンゴルに滅ぼされるまで続いた。

諸説と論点

「靖康の恥、なお雪がず」

岳飛が作ったとされる詞「満江紅」には、「靖康の恥、猶お未だ雪がず」という一節がある。この詞は中国で広く愛唱されてきたが、岳飛の作品として現れるのが明の時代になってからであることなどから、本当に岳飛が作ったのかを疑う説もある。

北宋が滅んだのは徽宗のせいか

芸術に熱中して政治をおろそかにした徽宗と、その周りの宦官や奸臣が国を滅ぼした、と語られることが多い。しかし、北方の騎馬民族の国に対して軍事力で劣るという問題は北宋の初めからあり、金との約束を守らなかった外交の失敗も大きかったとされる。

連れ去られた人々の数

北へ連れ去られた皇族・官僚・宮女・職人などの数は、1万人以上、あるいは十数万人ともいわれ、はっきりしない。多くが途中や北方の地で命を落とした。

関連年表

1115年完顔阿骨打が金を建てる
1120年ごろ宋と金が「海上の盟」を結ぶ
1125年金が遼を滅ぼす。徽宗が欽宗に位を譲る
1126年1月金軍が一度目の開封包囲。和議を結んで引き上げる
1126年閏11月開封が陥落
1127年4月徽宗・欽宗らが北へ連れ去られ、北宋が滅ぶ(靖康の変)
1127年5月康王趙構が即位(南宋の高宗)
1141年紹興の和議
1142年岳飛が殺される

両軍の陣容

金軍(宗望・宗翰)—

部隊兵力その後
宗望(東路軍)総大将勝利
宗翰(西路軍)総大将勝利
金の騎兵
金の攻城部隊

宋軍(欽宗)約7,777

部隊兵力その後
開封城(欽宗)総大将降伏
宋の守備兵敗走
郭京の「六甲神兵」7777人敗走

決め手

六甲神兵

朝廷は、6と甲の日に生まれた7777人を集めれば術で金軍を倒せるという郭京の言葉を信じ、宣化門を開けて「六甲神兵」を出撃させた。神兵はたちまち金軍に打ち破られ、郭京は逃げた。

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「北宋と遼・金 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『宋史』、『金史』