11942年8月23日
ヴォルガ川への到達
青作戦で東へ進んだドイツ第6軍の先頭が、スターリングラードの北でヴォルガ川に達した。同じ日、ドイツ空軍の大空襲で市街は炎に包まれ、多くの市民が死傷した。スターリンの名を冠したこの都市は、両軍にとって引けない戦場となった。
合戦絵巻 ─ ヨーロッパ戦線 勢力図
1942年8月23日
1942年8月から1943年2月にかけて、ソ連南部のヴォルガ川沿いの都市スターリングラード(いまのヴォルゴグラード)で、ドイツ軍とソ連軍が戦った。廃墟となった市街での戦いの末、ソ連軍は南北から挟み撃ちにする「ウラヌス作戦」でドイツ第6軍約30万人を包囲し、降伏させた。第二次世界大戦の東部戦線の転換点であり、人類史上最も犠牲の大きい戦いの一つである。
上の観戦プレイヤーでは、ドイツ第6軍・第4装甲軍約38万とルーマニア第3・第4軍約22万とソ連軍約55万、あわせて約115万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの8つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
1941年6月、ドイツはソ連に攻めこんだ。ドイツ軍はモスクワの手前まで迫ったが、冬の反撃で押し戻された。
1942年夏、ヒトラーは、カフカスの油田を手に入れるため、南部で大攻勢(青作戦)を始めた。その途中にあるヴォルガ川沿いの工業都市スターリングラードの攻略も、目標の一つとなった。
スターリンの名を冠したこの都市は、両軍にとって引くことのできない戦場となった。8月23日、ドイツ第6軍の先頭がヴォルガ川に達し、同じ日の大空襲で市街は炎に包まれた。
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11942年8月23日
青作戦で東へ進んだドイツ第6軍の先頭が、スターリングラードの北でヴォルガ川に達した。同じ日、ドイツ空軍の大空襲で市街は炎に包まれ、多くの市民が死傷した。スターリンの名を冠したこの都市は、両軍にとって引けない戦場となった。
29月〜11月
ドイツ軍は市街の9割を占領したが、チュイコフ将軍のソ連第62軍は川岸のわずかな地域を守り抜いた。夜ごとにヴォルガ川を渡って兵と弾薬が送り込まれ、工場や駅、一軒の家をめぐって至近距離の戦いが続いた。ドイツ兵はこれを「ネズミの戦争」と呼んだ。
311月19日
濃霧の朝、ソ連軍は激しい砲撃の後、スターリングラード北西のドン川沿いでルーマニア第3軍の戦線を突破した。装備の乏しいルーマニア軍は、ソ連の戦車軍団を止められなかった。
411月20日
翌日、市の南でもソ連軍が攻撃に出て、ルーマニア第4軍の戦線を破った。南北の戦車部隊は、ドイツ第6軍の背後にあるドン川の町カラチをめざして進んだ。
511月23日
南北のソ連軍がカラチ近くのソヴィエツキーで手を結び、ドイツ第6軍と第4装甲軍の一部、約30万人が包囲された。パウルス将軍は脱出を求めたが、ヒトラーは「空から補給する」として、スターリングラードの死守を命じた。
612月12日〜24日
マンシュタイン元帥の救出部隊が南から北上し、包囲網まで約50kmに迫ったが、そこで止まった。第6軍は燃料不足と命令のため包囲網から打って出られなかった。必要な物資の空輸も、1日数百トンの目標に遠く及ばず、兵士は飢えと寒さに苦しんだ。
71943年1月10日〜2月2日
ソ連軍は包囲網を四方から締め上げた。1月31日、元帥に昇進したばかりのパウルスが降伏し、2月2日に北部の部隊も降伏した。約9万人が捕虜となったが、戦後にドイツへ帰れたのは約5000人だった。
8結果
ドイツは精鋭の1個軍をまるごと失い、東部戦線の主導権はソ連に移った。両軍と市民の死傷者は合わせて100万人を大きく超えるとされ、人類史上最も犠牲の大きい戦いの一つとなった。
ドイツ軍は市街の9割を占領したが、チュイコフ将軍のソ連第62軍は、ヴォルガ川の岸のわずかな地域を守りぬいた。夜ごとに川を渡って兵と弾薬が送りこまれ、工場や駅、一軒の家をめぐって至近距離の戦いが続いた。
ドイツ軍の両側面は、装備の乏しいルーマニア軍などが守っていた。ソ連軍は11月、その弱いところを南北から突き破り、ドイツ第6軍の背後で手を結んで包囲した(ウラヌス作戦)。
パウルス将軍は包囲からの脱出を求めたが、ヒトラーは空から補給するとして死守を命じた。空輸は目標に遠く及ばず、救出部隊も届かなかった。兵士は飢えと寒さの中で力尽きていった。
ドイツ第6軍の司令官。降伏の直前に元帥に昇進させられたが(元帥は降伏しないものとされていた)、1943年1月31日に降伏した。
ソ連第62軍の司令官。市街戦で川岸を守りぬいた。のちにベルリンの攻略にも加わった。
ソ連の名将。ウラヌス作戦の計画に深く関わったとされる。
ドイツの元帥。救出部隊を率いて包囲網まで約50kmに迫ったが、第6軍を救うことはできなかった。
1943年2月2日、包囲された部隊はすべて降伏した。約9万人が捕虜となったが、戦後にドイツへ帰れたのは約5000人だった。ドイツは精鋭の1個軍をまるごと失い、東部戦線の主導権はソ連に移った。
両軍と市民の死傷者は、合わせて100万人を大きく超えるとされる。この年の夏、ドイツはクルスクで最後の大攻勢に出たが敗れ、以後ソ連軍は西へ攻め進んで、1945年5月、ベルリンを攻め落とした。
ヒトラーが第6軍の脱出を許さなかった理由には、スターリンの名を冠した都市への執着、空輸ができるというゲーリングの約束、撤退すれば戦線全体が崩れるという判断などが挙げられる。その結果、30万人近い兵が失われた。
| 1941年6月 | ドイツがソ連に攻めこむ |
|---|---|
| 1942年6月 | ドイツ軍の夏の大攻勢(青作戦) |
| 1942年8月23日 | ドイツ軍がヴォルガ川に達する。大空襲 |
| 1942年11月19日〜23日 | ウラヌス作戦。ドイツ第6軍が包囲される |
| 1942年12月 | 救出作戦(冬の嵐作戦)が失敗 |
| 1943年2月2日 | ドイツ第6軍が降伏 |
| 1943年7月 | クルスクの戦い |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| ドイツ第6軍(パウルス) | 約25万 | 沈没 |
| 第14装甲軍団 | 約3万 | 沈没 |
| 第4装甲軍 | 約5万 | |
| 救出部隊(マンシュタイン・ホト) | 約5万 | |
| 輸送機 Ju52(空輸) | 数百機 | 戦死・壊滅 |
| ドイツ空軍の爆撃機 | 約1,000機 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| ルーマニア第3軍 | 約15万 | 沈没 |
| ルーマニア第4軍 | 約7万 | 沈没 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| スターリングラード | 炎上 | |
| ソ連第62軍(チュイコフ) | 約5万 | |
| 南西方面軍の戦車軍団 | 約20万 | |
| スターリングラード方面軍 | 約15万 | |
| ヴォルガ川の渡河船 | 渡河船 | |
| ドン方面軍 | 約15万 |
決め手
南北のソ連軍がカラチ近くのソヴィエツキーで手を結び、ドイツ第6軍と第4装甲軍の一部、約30万人が包囲された。パウルス将軍は脱出を求めたが、ヒトラーは「空から補給する」として、スターリングラードの死守を命じた。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この戦いは「ヨーロッパ戦線 勢力図」の中でも、アニメとして見られます。
主な参考:アントニー・ビーヴァー『スターリングラード ─ 運命の攻囲戦 1942-1943』(朝日文庫)