合戦絵巻 ─ 第一次世界大戦 勢力図

ソンムの戦い

1916年7月1日〜11月18日 / フランス北部 ソンム川

6月24日〜30日

1週間の砲撃

1粒=約100人

1916年7月1日から11月18日まで、フランス北部のソンム川のまわりで、イギリス・フランス軍がドイツ軍の陣地に大攻勢をかけた。1週間の砲撃のあと塹壕を出た英軍は機関銃になぎ倒され、初日だけで約5万7000人が死傷した。9月には戦車が初めて戦場に現れた。4か月半で進めたのは最大でも10kmほど、死傷者は両軍で100万人を超えた。

上の観戦プレイヤーでは、ドイツ第2軍・第1軍約12万と英国第4軍(ローリンソン)・フランス第6軍約19万とfr約8万、あわせて約39万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

ドイツ第2軍・第1軍
約12万
英国第4軍(ローリンソン)・フランス第6軍
約19万
fr
約8万
いつ
6月24日〜30日 → 結果

なぜ戦ったのか

1914年のマルヌの戦いのあと、西部戦線は塹壕でつながり、両軍は鉄条網と機関銃に守られた陣地で向かい合っていた。正面から攻めても、敵の塹壕を一つ奪うたびに膨大な犠牲が出た。

1916年2月、ドイツ軍はフランスのヴェルダン要塞に大攻勢をかけ、フランス軍は大きな損害を出していた。フランスを助けるためにも、イギリスは早く大きな攻勢に出る必要があった。

イギリス軍の主力は、1914年の開戦後に志願して集まった「キッチナー陸軍」の新しい兵たちだった。同じ町や職場の仲間で作った「パルズ(仲間)大隊」も多かった。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

16月24日〜30日

1週間の砲撃

英軍は約1500門の大砲で、7日間に約150万発の砲弾を撃ち込んだ。砲撃で鉄条網を切り、敵を全滅させてから、兵士は歩いて占領するだけのはずだった。しかしドイツ兵は深さ10mを超える地下の壕で耐えており、不発弾も多く、鉄条網の多くは残った。

27月1日 7時28分

ホーソーン・リッジの地雷

攻撃の直前、ドイツ軍陣地の下までトンネルを掘って仕掛けた巨大な地雷が爆発した。ラ・ボワッセルのロッホナガー坑道の爆発は、当時の人工の爆発で最大級といわれ、大きな穴が今も残っている。しかし、爆発のあと砲撃がやんだ数分の間に、ドイツ兵は壕から出て機関銃を据えた。

37月1日 7時30分

無人地帯を歩いて

笛の合図で、英兵は重い荷物を背負い、横一列になって歩いて進んだ。そこへ機関銃の射撃が浴びせられ、北部ではほとんど前に進めなかった。この日の英軍の死傷者は約5万7000人(戦死約1万9000人)で、英軍の歴史で最悪の1日となった。一方、南部の第13軍団とフランス軍は目標を占領した。

47月〜8月

森をめぐる消耗戦

攻撃は何度も繰り返され、デルヴィルの森やハイ・ウッドなどの小さな森を、両軍が数週間にわたって奪い合った。森は砲撃で切り株だけになった。南アフリカ旅団やオーストラリア軍も大きな犠牲を出した。空では偵察機が砲撃の目標を探した。

59月15日

戦車の初登場(フレール=クールスレット)

イギリス軍は秘密兵器の戦車49両を投入したが、故障などで実際に攻撃に加われたのは十数両だった。それでも鉄条網を押しつぶし、機関銃の弾をはね返して進む姿はドイツ兵を驚かせ、フレールの村が占領された。「戦車がフレールの大通りを進み、英軍が歓声をあげて続く」という報告が伝えられた。

611月18日

泥と雪の中の終わり

9月末にはティエプヴァルがようやく落ち、11月には初日に失敗したボーモン=アメルも占領された。しかし秋の雨で戦場は泥沼となり、11月18日に攻勢は打ち切られた。連合軍が進めたのは、最大で約10kmだった。

7結果

ソンムの戦いの結果

4か月半の戦いで、英軍約42万人、仏軍約20万人、ドイツ軍約43万〜50万人(諸説あり)が死傷した。ヴェルダンのフランス軍の負担を軽くするという目的は果たされ、ドイツ軍にも大きな打撃を与えたが、その代償の大きさから、ソンムは第一次世界大戦の無意味な消耗戦の象徴とされる。戦車は、翌年のカンブレーの戦いで大規模に使われた。

勝敗を分けたもの

砲撃の限界

1週間で約150万発の砲弾を撃ちこめば、鉄条網は切れ、敵は全滅する――そう考えられていた。しかしドイツ兵は深い地下壕で耐え、不発弾も多く、鉄条網の多くは残った。

歩いて進む横一列

英兵は重い荷物を背負い、横一列になって歩いて進むよう命じられていた。砲撃がやむと壕から出てきたドイツ兵の機関銃が、その列をなぎ倒した。

戦車の登場

9月15日、イギリス軍は秘密兵器の戦車を初めて戦場に送りだした。故障が多く数も少なかったが、塹壕と鉄条網を越えて進む新しい兵器は、のちの戦争のあり方を変えていく。

主な武将とその後

ヘイグ英国第4軍(ローリンソン)・フランス第6軍

イギリス派遣軍総司令官。大きな犠牲を出しながら攻勢を続けたことで、のちに「兵を無駄死にさせた将軍」と厳しく批判された。

ローリンソン英国第4軍(ローリンソン)・フランス第6軍

イギリス第4軍司令官。初日の攻撃を指揮した。歩兵が歩いて進む作戦は、経験の浅い兵を考えてのことだったとされる。

J・R・R・トールキン英国第4軍(ローリンソン)・フランス第6軍

『指輪物語』の作者。通信将校としてソンムの戦いに加わり、多くの友人を失った。この経験が作品に影を落としているといわれる。

合戦のあと

11月18日、秋の雨で泥沼になった戦場で、攻勢は打ち切られた。英軍は約42万人、仏軍は約20万人、ドイツ軍は約43万〜50万人が死傷したとされる。ヴェルダンのフランス軍の負担を軽くするという目的は果たされ、ドイツ軍にも大きな打撃を与えた。

しかし、わずかな土地のために払われた犠牲のあまりの大きさから、ソンムは第一次世界大戦の無意味な消耗戦の象徴として記憶されることになった。イギリスでは、7月1日は今も深い悲しみとともに思い起こされる日である。

諸説と論点

「ライオンを率いるロバ」

勇敢な兵士(ライオン)を愚かな将軍(ロバ)が率いた、という言葉は、ソンムの英軍を語るときによく使われる。一方で、近年は、英軍がこの戦いで多くを学び、1918年の勝利につながる戦い方を身につけていったと評価する研究もある。

戦車を出すのは早すぎたのか

数の少ない戦車を小出しにしたことで、秘密兵器の驚きを無駄にしたという批判がある。一方、実際に戦場で使ってみなければ欠点はわからなかったとする見方もある。

関連年表

1914年9月マルヌの戦い。西部戦線が塹壕戦になる
1916年2月ヴェルダンの戦いが始まる
1916年6月24日〜30日ソンムで1週間の準備砲撃
1916年7月1日ソンムの戦いの初日。英軍の死傷者約5万7000人
1916年9月15日戦車が初めて戦場に登場
1916年11月18日攻勢の打ち切り
1917年11月カンブレーの戦い。戦車の大規模な使用

両軍の陣容

ドイツ第2軍・第1軍約12万

部隊兵力その後
ドイツ第2軍約3万
歩兵約3万
歩兵約3万
歩兵約3万
ティエプヴァル要塞化された村炎上
ホーソーン・リッジ堡塁炎上

英国第4軍(ローリンソン)・フランス第6軍約19万

部隊兵力その後
第8軍団約5万損害
第10軍団(アルスター師団など)約4万損害
第3軍団約4万損害
第13軍団約3万
砲兵(約1500門)約1,500門
マークI戦車約16両
約16両損害
約16両
カナダ軍・NZ軍約3万
英陸軍航空隊偵察機

fr約8万

部隊兵力その後
フランス第6軍約8万

決め手

無人地帯を歩いて

笛の合図で、英兵は重い荷物を背負い、横一列になって歩いて進んだ。そこへ機関銃の射撃が浴びせられ、北部ではほとんど前に進めなかった。この日の英軍の死傷者は約5万7000人(戦死約1万9000人)で、英軍の歴史で最悪の1日となった。一方、南部の第13軍団とフランス軍は目標を占領した。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「第一次世界大戦 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:ジョン・キーガン『第一次世界大戦』(中公文庫)、木村靖二『第一次世界大戦』(ちくま新書)